カジミール=ピエールペリエとは? わかりやすく解説

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カジミール=ピエール・ペリエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/10 04:30 UTC 版)

ルイーズ・アデライード・デスノス英語版による肖像画、1843年。

カジミール=ピエール・ペリエCasimir Pierre Périer1777年10月11日1832年5月16日)は、フランス七月王政の銀行家、政治家。復古王政期には中道左派に属したが、七月王政期には保守派になり、1831年に内務大臣および閣僚評議会議長(首相)に任命された[1]。首相として治安維持に力を入れたが、1832年のコレラ流行で病に倒れ、そのまま病死した[1]

生涯

クロード英語版の肖像画。ジャン=バティスト・フランソワ・デソリア英語版画、1808年。

銀行家クロード・ペリエ英語版の四男として、1777年10月11日にグルノーブルで生まれた[1]。長兄オーギュスタンフランス語版、三番目の兄アントワーヌ=スキピオンフランス語版、長弟カミーユフランス語版と同じく銀行家、政治家になった[1]テルミドール9日のクーデター(1794年)の後、一家はパリに引っ越した[1]。1801年に父が死去した後、カジミール=ピエールは兄アントワーヌ=スキピオンとともにパリで銀行を設立し、スキピオンが運営を、カジミールが投資を担当した[1]

ルイ18世の治世になると、首相リシュリュー公爵が対仏大同盟への賠償金を工面する政策に反対して1817年に『Réflexions sur le projet d’emprunt』と題するパンフレットを出版し、同年に『ル・モニトゥール・ユニヴェルセル』の記事への返答として『Dernières réflexions sur le projet d’emprunt』と題するパンフレットを出版した[1]。さらに同年9月にセーヌ県から選出されて代議院議員になり、1822年、1824年英語版に再選した[2]1827年フランス代議院選挙英語版ではセーヌ県とオーブ県の両方で当選し、オーブ県の代表として議員を務めた[1][2]。この時期のペリエは中道左派で野党に属し、初演説は出版の自由を擁護する内容だった[1]共和主義を支持しなかったため、マルティニャック子爵内閣期に政府と和解する機運が高まり、1829年1月には次期首相として名前が挙げられるようになったが、同年8月に保守派のポリニャック公爵が首相に就任すると、和解案は失敗に終わった[1]。そして、ペリエは1830年3月15日に221人の勅語奉答に署名した議員の1人となった[1]。同年の七月革命ではパリ市庁舎の五人委員会の委員を務めたが、シャルル10世の廃位宣言への署名に拒否し、ルイ・フィリップ1世を暴徒にへりくだっているとして軽蔑しつつもその即位を認めた[1]

1830年フランス代議院選挙英語版で再選した後、同年8月に2週間ほど代議院議長を務め、同年11月から1831年3月まで再び議長を務めた[2]。同1830年8月に無任所大臣にも就任したが、11月にジャック・ラフィットが組閣すると、内閣が自由主義的だとして大臣を辞任した[2]。このように左派から右派へと移ったペリエは、ラフィット内閣が崩壊した後の1831年3月13日に内務大臣および閣僚評議会議長(首相)に任命された[1][2]

首相としてのペリエは治安に力を入れた。パリは1831年3月から9月まで常に騒動の状態にあったが、ペリエはこれを抑えた[1]。同年12月にリヨンカヌート争議英語版が起こったが、鎮圧された[1]。また1832年3月にグルノーブルで治安維持をめぐって軍と住民の間で争いが生じたときは軍を支持した[1]。外交ではポーランドの11月蜂起への支援を拒否した一方、ベルギー独立革命における十日戦争(1831年8月)には援軍を出して、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)による革命鎮圧を阻止した[1]。1831年の中部イタリア革命が失敗した後にオーストリア帝国軍が教皇領に駐留すると、1832年2月にアンコーナ遠征英語版を実施してフランスのイタリアにおける影響力を維持した[1]。1831年にポルトガル王国でフランス国民が有罪判決を受け、フランスがこれを冤罪だとして抗議したが、ポルトガルが取り合わなかったため、ペリエは艦隊を派遣して示威した[1]タホ川の戦い英語版)。

1832年春にパリでコレラが流行すると、ペリエは王太子のオルレアン公フェルディナン・フィリップとともに病院を訪れて患者を見舞ったが、翌日に熱病で倒れ、6週間後の1832年5月16日に死去した[1]。『ブリタニカ百科事典第11版』はペリエが首相としての過労により、病気にかかりやすい状態にあったと評した[1]

息子オーギュスト・ヴィクトル・ローラン英語版は七月王政期に外交官を務め、第三共和政期に内務大臣を務めた[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Périer, Casimir Pierre” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 21 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 148–149.
  2. ^ a b c d e “Casimir, Pierre Perier”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年11月10日閲覧.

外部リンク

公職
先代
ピエール・ポール・ロワイエ=コラール英語版
代議院議長
1830年
次代
ジャック・ラフィット
空位 無任所大臣
1830年
空位
先代
ジャック・ラフィット
代議院議長
1830年 – 1831年
次代
アメデー・ジロ・ド・ラン英語版
先代
ジャック・ラフィット
閣僚評議会議長(首相)
1831年 – 1832年
次代
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
先代
カミーユ・ド・モンタリヴェ英語版
内務大臣
1831年 – 1832年
次代
カミーユ・ド・モンタリヴェ英語版



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