オマーン王国の覇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:02 UTC 版)
ポルトガルによるスワヒリ世界への侵入は、1698年にスワヒリ諸都市とオマーン王国の連合軍に敗れ、以後ポルトガルはインド洋海域から撤退した。 19世紀、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征によってエジプトが政情不安定となり紅海交易が廃れ、ペルシャ湾交易が重視されると、マスカット・オマーンのアラブ人が勢力を伸ばした。マスカットの領主(イマーム)サイイド・サイードはイギリスから外航船を獲得するとザンジバルを根拠地として沿岸貿易の支配を試みた。当時モンバサを中心とするマズルイ家がペンバ島やラム島、パテ島を占領しており東アフリカで勢力を伸ばしつつあったので、サイイド・サイードはマズルイ家を攻撃した。 1837年にはマズルイの勢力がモンバサから消滅し、1840年にサイードはマスカットからザンジバルに本拠地を移すと、ヨーロッパ諸国の領事館がザンジバルに開かれるようになった。
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