オトクニの語源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:59 UTC 版)
和銅6年(713年)の好字改正令によって弟国郡から乙訓郡に改められた。 前身の弟国郡は大宝元年(701年)の大宝令により設置されたものだが、弟国を「弟の国」と解釈し、「兄の国」=エクニ(兄国)の所在について従来より様々な説が唱えられてきた。 「兄の国」を葛野郡(現在の京都市西部)とみて、弟国郡は大宝令施行と同時に葛野郡から分割されたとの説が1955年に出されて有力であったが、1980年に藤原宮跡から「弟国評鞆岡三」と書かれた木簡が出土して、大宝以前の「評」制の時代から存在したことが判明し、最初にこの説を唱えた黛弘道も1982年に自らの見解を修正している。弟国評の設置時期については概ね7世紀の後半とされている。 そのほか「オトクニ」の語源を「弟の国」以外に求めた堕国(おちくに)説、少国(おぐに)説なども存在する。 『古事記』では、四道将軍の一人で、丹波に派遣された美知能宇斯王(みちのうしのみこ)の末娘・円野比売命(まとのひめのみこと)が、天皇の妃に選ばれなかったことを恥じて、丹波への帰路、淵に身投げをしたことから、そこを「堕国」(おちくに)と言った、と乙訓地名の由来譚を語っている。
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