オイレンブルク使節団
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「フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク」の記事における「オイレンブルク使節団」の解説
詳細は「オイレンブルク使節団(英語版)」を参照 プロイセンの海外貿易が拡大し、東南アジアや東アジアの交易国を調査するため、オイレンブルクは使節団の代表に選ばれた。使節団を乗せたコルヴェット艦アルコーナ号が1859年10月、日本(江戸幕府)や、中国(清王朝)、タイ(シャム)に向けて出発、1860年9月4日、江戸湾に落着した。9月14日には、船上にて老中安藤信正とオイレンブルク間(通訳:オランダ系アメリカ人ヘンリー・ヒュースケン)での初会談が持たれた。 1861年1月15日、ヘンリー・ヒュースケンがプロイセン王国の宿舎善福寺からの帰路で薩摩藩の襲撃に遭い、翌日死去した。事件の影響は無く、1月24日に日英修好通商条約をベースにした条約を江戸幕府と締結(日普修好通商条約)。同年9月には清国と、3年前にイギリスとフランスが結んだ天津条約と同様の修好通商条約を締結した。尚、日本では交渉中に担当者の堀利煕が謎の自殺を遂げた為、後任の村垣範正と条約を締結した。
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