エラムの崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:29 UTC 版)
「アッシリアによるエラム攻略戦」の記事における「エラムの崩壊」の解説
当時のエラムはアッシリアの攻撃以外にも数々の困難に直面していた。北部国境はペルシア人によって脅かされていた。内乱も起きていた。紀元前639年の遠征は、過去数世紀にわたるエラムによるメソポタミアへの侵攻に対する復讐と位置づけられ、アッシュールバニパルはそれを誇りとし、記録させた。 1か月と25日の行程に渡り、私はエラムの諸州を荒廃させた。塩とsihluをそれらの地に撒いた。スーサ、マダクトゥ、ハルテマシュその他の都市の塵を私は集め、アッシリアへと持ち帰った…。人々の騒音、牛と羊の足音、歓喜の叫び声を私はこれらの地から追い払った。野生のロバ、ガゼル、平原のあらゆる種類の獣を、まるで家にいるかのように私は横たえさせた。 — アッシュールバニパル エラムの破壊は、アッシリアの帝国の終焉にも繋がった。長年の戦争によって、アッシリアの戦争能力もむしばまれていた。エラムが滅んでから34年後、アッシリアもまた、中東の独立した政治主体としての地位を永久に失った。
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