ウェイイ・サビニ同盟(紀元前475年-紀元前474年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:38 UTC 版)
「ローマ・エトルリア戦争」の記事における「ウェイイ・サビニ同盟(紀元前475年-紀元前474年)」の解説
詳細は「ウェイイとの戦い (紀元前475年)」を参照 紀元前475年、ウェイイは前年にローマに敗北していたにも関わらず、サビニ族と同盟してローマと敵対した。 執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラが軍の指揮を任された。紀元前486年にローマはヘルニキ族と攻守同盟を結び、ローマ軍はヘルニキとラティウム同盟(紀元前493年のカッシウス条約以来の同盟関係)からの支援部隊で増強されていた 。 サビニ軍はウェイイの城壁の外に野営していた。ローマ軍はこの防御戦を攻撃した。サビネ軍は出撃して来たが、ローマ軍の方が優勢で野営地の門を占領した。ウェイイ軍も街から出撃して来たが、しかしその攻撃は組織だっておらず、ローマの騎兵がウェイイ軍を一掃し、ローマ軍に勝利をもたらした。 この勝利で、ウァレリウスは同年5月1日に凱旋式を挙行している。 紀元前474年、執政官グナエウス・マンリウス・ウルソがウェイイとの戦争を担当することとなったが、実際には戦闘は一度も生じなかった。ウェイイは講和を求め、ローマはこれを受け入れた。ウェイイは穀物と賠償金をローマに渡し、40年間の停戦が合意された。これを讃えて、マンリウスは3月15日に小凱旋式を実施している。
※この「ウェイイ・サビニ同盟(紀元前475年-紀元前474年)」の解説は、「ローマ・エトルリア戦争」の解説の一部です。
「ウェイイ・サビニ同盟(紀元前475年-紀元前474年)」を含む「ローマ・エトルリア戦争」の記事については、「ローマ・エトルリア戦争」の概要を参照ください。
- ウェイイ・サビニ同盟のページへのリンク