ウィルソン政権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:34 UTC 版)
「ジェームズ・キャラハン」の記事における「ウィルソン政権時代」の解説
1963年1月に労働党党首のヒュー・ゲイツケルが急死すると、右派の一部の支持を得て党首選挙に立候補する。結果は最下位に終わったが、1964年にウィルソン内閣が発足すると、大蔵大臣として閣僚入りした。ここでキャラハンは国際収支赤字に苦しむポンドの防衛に対応することとなるが、これに失敗してポンド売りが殺到してしまう。 1970年6月に内務大臣を退任した後は、1974年3月に外務大臣に就任する。ここでイギリスのヨーロッパ共同体(EEC)残留問題に対応する。閣内は残留賛成派と反対派で真っ二つに割れたが、キャラハンとウィルソン首相は残留賛成派であった。結果的にこの問題は庶民院の投票と国民投票を経てEEC残留が決定する。 1976年3月16日にウィルソン首相が突然辞任を発表した直後の同年3月23日には、ローデシアのスミス政権に対して黒人の多数支配に移行することを求め、アフリカの白人独裁政権が終焉に向かうきっかけを作った。
※この「ウィルソン政権時代」の解説は、「ジェームズ・キャラハン」の解説の一部です。
「ウィルソン政権時代」を含む「ジェームズ・キャラハン」の記事については、「ジェームズ・キャラハン」の概要を参照ください。
- ウィルソン政権時代のページへのリンク