イヴァン・ペトロフ (バス歌手)とは? わかりやすく解説

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イヴァン・ペトロフ (バス歌手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/23 03:09 UTC 版)

イヴァン・イヴァノヴィチ・
ペトロフ
ボリス・ゴドゥノフをリハーサル中のイヴァン・ペトロフ(1963年12月18日、トゥールーズ、トゥールーズ・キャピトル劇場)
基本情報
出生名 Ханс Краузе
Иван Иванович Петров
生誕 1920年2月29日[注 1]
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国イルクーツク
死没 (2003-12-26) 2003年12月26日(83歳没)[注 2]
ロシアモスクワ
ジャンル クラシック
職業 歌手バス)、音楽教師、俳優
レーベル メロディア
共同作業者 ボリショイ劇場(1943-1970)
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イヴァン・イヴァノヴィチ・ペトロフロシア語: Иван Иванович Петров, ラテン文字転写: Ivan Ivanovich Petrov、本名ハンス・クラウゼ Ханс Краузе,Khans Krauze[1]1920年2月29日[注 1] - 2003年12月26日[注 2])はソビエト連邦ロシアオペラ及び室内楽歌手バス)、音楽教師、俳優

概要

イルクーツクのロシア化したドイツ人の家系に生まれ出生時の名前は「ハンス・クラウゼ」と言う[1]。1930年、一家を挙げてモスクワに移住する(その後、父親は収容所に送られ行方不明となり続いて母親も流刑に処された[3][注 3])。少年時代はスポーツに熱中していたが、彼の声に注目した教師に勧められて声楽の勉強を始める。1938年から1941年にかけてグラズノフ記念音楽学校でバリトン歌手のアナトリー・ミネーエフロシア語版に師事し、在学中からモスクワ国立アカデミーフィルハーモニー主催の演奏会やイワン・コズロフスキーのオペラ・アンサンブルの公演に参加していた。音楽学校卒業後、1942年11月から1943年4月にかけて前線慰問団に参加し、ブリャンスク戦線ヴォルホフ戦線で演奏を行った。前線より戻った後、コズロフスキーの勧めでボリショイ劇場のオーディションを受け合格し、同劇場のソリストとして1970年まで活躍することとなる。1947年、ある公演でスターリンに注目されるが、ドイツ系の姓をスターリンが嫌ったため、以降は妻(ボリショイ劇場のバレリーナだった)の姓である「ペトロフ」を名乗った[3]。同年、プラハで開催された第1回世界青年学生祭典の声楽コンクールで優勝し、1949年の第2回祭典(ブダペスト開催)でも続けて優勝している。

1950年代から1960年代にかけて全盛期を迎え、1950年、1951年と連続してスターリン賞を受賞する。1954年にはパリ・オペラ座から招かれて『ボリス・ゴドゥノフ』のタイトル・ロール、『ファウスト』のメフィストフェレスの二役を歌い絶賛され、同劇場の名誉会員の称号を授与された。1964年にミラノ・スカラ座にボリショイ劇場が出張公演した際には、公演後、感激したシャリアピンの娘から父親がボリスを演じる時に付けていた指環を贈られている[1][3]。美しく深い声、卓越した演技力、舞台映えする長身(190cm)により聴衆を魅了したが、一方で練習嫌いな面があり、ショスタコーヴィチの『ステパン・ラージンの処刑英語版』初演ではゲネプロに参加せずグロマツキーにソリストを交代させられている[注 4]

1970年、糖尿病に起因する発声障害を起こし、ボリショイ劇場の舞台から退く。その後は室内楽の歌手や声楽教師、ボリショイ劇場の声楽コンサルタント、ラジオ番組の司会などを務めた。また、俳優として東部劇首無し騎兵ロシア語版』などに出演している。1997年に回想録『ボリショイ劇場での四半世紀』を執筆[注 5]、その他にも音楽関係の評論やエッセイを遺した。

2003年12月26日[注 2]にモスクワで没しクンツェヴォ墓地ロシア語版に埋葬された。

主な録音

以下はメロディア録音[注 6]

オペラ
その他

映画出演

  • エフゲニー・オネーギン(1958年、オペラ映画) - グレーミン役
  • 十月(1963年) - レーニン役
  • ポルタヴァ(1969年) - コチュベイ役
  • 首無し騎兵(1973年) - ゼブ・スタンプ役

受賞

脚注

注釈

  1. ^ a b 日付は2月23日とする説もある[2]
  2. ^ a b c 日付は12月27日とする説もある[2]
  3. ^ 父親は(はっきり)銃殺されたと書いた文章もある[1]
  4. ^ 「気分がすぐれない」という理由で欠席した[4]。指揮を担ったコンドラシンによれば、ゲネプロ以前に行われた5回のオーケストラ・リハーサルのうち2回しか参加せず参加した際も全力を尽くさなかったという[5]。コンドラシンは交響曲第13番のソリストを決める際もペトロフが真面目な態度をとるかどうか不安視し、ショスタコーヴィチが候補に挙げたペトロフを外していた[6]
  5. ^ ただし出版は亡くなる直前だった[1]
  6. ^ サイト「ソビエト連邦のレコード・カタログ」[7]の検索結果による。

出典

  1. ^ a b c d e belcanto.ruのイヴァン・ペトロフの頁
  2. ^ a b kino-teatr.ruのイヴァン・ペトロフの頁
  3. ^ a b c サンクトペテルブルク・フィルハーモニアの100年 イヴァン・ペトロフ
  4. ^ 森田稔 スコア『ステパン・ラージンの処刑』解説、58頁(全音楽譜出版社ISBN 4-11-718216-1
  5. ^ ローレル・ファーイ『ショスタコーヴィチ:ある生涯』304頁(アルファベータ) ISBN 4-87198-534-2
  6. ^ ウラディーミル・ラジュニコフ編『キリル・コンドラシンは語る、音楽とその生涯』(Кирилл Кондрашин рассказывает о музыке и жизниソヴィエト作曲家、1989年。ISBN 5-85285-233-3。森田・ファーイの情報源でもある。
  7. ^ ソビエト連邦のレコード・カタログ

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