ヴィタリー・グロマツキーとは? わかりやすく解説

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ヴィタリー・グロマツキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 08:26 UTC 版)

ヴィタリー・アレクサンドロヴィチ・グロマツキー
出生名 Виталий Александрович Громадский
Віталій Олександрович Громадський
生誕 (1928-12-10) 1928年12月10日
ソビエト連邦
ウクライナ社会主義ソビエト共和国ヴィーンヌィツャ州テプリク地区ウクライナ語版コマリーフカウクライナ語版
学歴 モスクワ音楽院
ジャンル クラシック
職業 歌手バス
レーベル メロディア
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ヴィタリー・アレクサンドロヴィチ・グロマツキーロシア語: Вита́лий Алекса́ндрович Грома́дскийVitalii Aleksandrovich Gromadsky, ウクライナ語: Віталій Олександрович Громадський1928年12月10日 - )はソビエト連邦バス歌手ウクライナに生まれロシアで活躍した。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国功労芸術家1979年授与)。1964年よりソビエト連邦共産党党員。

1961年モスクワ音楽院を卒業する。在学中の1960年ベルリンで開催されたピアニストと歌手のためのローベルト・シューマン国際コンクールに出場し優勝している。1961年から1988年までモスクワ・フィルハーモニー協会のソリストを務めた[1][2]

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ交響曲第13番『バビ・ヤール』の初演(1962年12月18日)の際の独唱者として広く知られている。当局の圧力により、独唱を依頼したバス歌手に断られ、初演を承諾した歌手も当日のゲネプロに現れず[3]、結局、代役に用意されていたグロマツキーが会場入りできたため、初演者として記録されることとなった。

ショスタコーヴィチ作品では、1964年の『ステパン・ラージンの処刑英語版』でも初演時の独唱を務めているが、この時も交響曲の場合と同様に、予定されていたバス歌手のゲネプロ不参加[4]により初演者となっている。

脚注

  1. ^ 現代ウクライナエンサイクロペディア
  2. ^ ファーイ『ある生涯』567頁では「モスクワ交響楽団のソリスト」とされている。
  3. ^ ボリス・グムイリャロシア語版は早々に辞退し、ヴィクトル・ネチパイロロシア語版は理由不明ながら当日欠席した(ファーイ『ある生涯』286,290-292頁)。
  4. ^ イヴァン・ペトロフが気分がすぐれないという理由で欠席(森田稔『ステパン・ラージンの処刑』58頁)。

参考文献




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