インディギルカ号とは? わかりやすく解説

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インディギルカ号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/24 08:45 UTC 版)

猿払村にある遭難者慰霊碑
インディギルカ号の遭難地に建てられていた日ロ友好記念館。遭難時の資料が展示されていた(2011年閉館)。

インディギルカ号ロシア語:Индигиркаインヂギールカ)は、旧ソビエト連邦貨客船1939年12月12日の未明、北海道猿払村浜鬼志別沖合で座礁沈没。全長80m内外。船名は、シベリア地方のインディギルカ川に由来。

概要

アメリカマニトワックで1920年に製造され、アメリカからソ連へ売却された貨客船。1939/1940年版ロイド船舶名鑑より船名Indighirkaで船籍USSRとして登録されている。 総トン数2.33トン、全長314.9フィート、幅38.0フィート。

遭難

ソ連籍の貨客船インディギルカ号は、1939年12月12日、マガダンのナガエヴォ港からウラジオストク宗谷海峡を航行中、暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流。 午前二時頃猿払村の沖合の岩礁二丈岩に座礁[1]。左舷に穴が開き浸水しながら西北方に押し流された。インディギルカ号船長のニコライ・ラプシンの命によりSOS信号が発出され、稚内港から北日本汽船の樺太丸などが出航。樺太丸は現地でボートを出してインディギルカ号の乗客を救助、13日午後までに樺太丸に395人が収容されたほか、7人が海岸に泳ぎ着いたことから猿払村の住民が総出で救出活動にあたった[2]。結果的に子供も含め429名の生存者を救出するものの12月14日午前10時時点で海岸で収容された遺体は293人となった。収容できなかった者も含め700名以上が死亡したと思われたが[3]、スターリン体制下の秘密主義により船長も概数でしか乗客数を把握しなかった。また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

救出後

当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、ソ連大使館から派遣された領事は稚内警察に対して、遺体、遺品の焼却処理を要望する、という異例の連絡を行っている。遭難者らは、23日に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。

その後、日本外務省はソ連側へ救助経費・損害賠償金を請求し、ソ連側は14万7,427円を支払った。 遭難した船体は外務省を窓口とした三菱商事に払い下げられ、1941年6月より解体に着手した。

猿払村は、1971年昭和46年)にオホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は慰霊碑の建立には協力したものの、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

謎の解明

ソビエト連邦の崩壊後の1991年歴史学者原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している[4]

記念碑

記念碑の位置

前記の通り、1971年に道の駅さるふつ公園近くの海岸に記念碑が建立された。費用は寄付によって賄われ、土台は当時のソ連政府から寄贈されたシベリア産の石材である[5]。道の駅さるふつ公園の敷地には、事件の資料などを展示した「日ソ(ロ)友好記念館」が1972年にオープンしたが、施設の老朽化を理由に2011年に閉鎖・解体された[6]。展示されていた資料の一部は道の駅さるふつ公園の管理棟内に展示されていたが[6]、2021年8月時点では非公開となっている。

余談

のちにソ連の宇宙開発の第一人者となるセルゲイ・コロリョフはコルィマ鉱山のセヴォストラクに収監中、再審の知らせを受けてモスクワに出頭するためマガダンからこのインディギルカ号に乗船する予定だったが、コルィマからマガダンにコロリョフが到着したときにはすでにインディギルカ号が出港したあとだったため、難を逃れたという逸話がある[7]

脚注

  1. ^ 『インディギルカ号の悲劇』原暉之筑摩書房、1993年11月、P4。ISBN 448085634X
  2. ^ ソ連船が遭難、水死・不明七百三十人『東京日日新聞』(昭和14年12月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p739 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 三百九十三人の遺体を収容『東京日日新聞』(昭和14年12月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p739-740
  4. ^ 『インディギルカ号の悲劇』原暉之筑摩書房、1993年11月、P22-32。ISBN 448085634X
  5. ^ インディギルカ号遭難者慰霊碑 - じゃらんnet
  6. ^ a b おしらせ 日ロ友好記念館閉館について - 猿払村観光協会のブログ(2011年11月17日)
  7. ^ ゴロヴァノフ Ya. K., コロリョフ:事実と神話 (1994), p. 275, ナウカ

参考文献

関連項目





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