アンボワーズの凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:18 UTC 版)
「アンボワーズ城」の記事における「アンボワーズの凋落」の解説
アンボワーズに王宮が戻ることは二度となかった。17世紀初めに巨大な城はルイ13世の弟オルレアン公ガストンの手に渡ったが、ほとんど放置されていた上、ガストンの死後城は王家の資産に戻された。フロンドの乱の際には刑務所に転用され、ルイ14世の時代には失脚した大臣ニコラ・フーケとローザン公アントワーヌ・ド・コーモンもここに拘留された。ルイ15世の時代に移ると大臣のショワズール公エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールがルイ15世からアンボワーズ城を与えられた。 フランス革命期には城のかなりの部分が取り壊されたが、後世の破壊はそれを上回った。1800年代の初めに皇帝ナポレオンが委任した技術者の下した結論は城の大部分を取り壊すというものだった。 ルイ・フィリップ王の統治時代に修復が始められたが、1848年に退位すると城は共和国政府に没収されて、亡命中のアブド・アル・カディールが1848年から1853年まで滞在していた。1873年、ルイ・フィリップの相続人に資産管理が委ねられ大規模な修復が行われた。しかし1940年のナチス・ドイツ侵略により、城はさらなる被害を受けた。 現在、オルレアン家当主がサン・ルイ教会を通して城を管理している。
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