アントニオ・セーニとは? わかりやすく解説

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アントニオ・セーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/30 06:02 UTC 版)

アントニオ・セーニ
Antonio Segni


任期 1962年5月11日1964年12月6日

イタリア
50代 首相
任期 1959年2月16日1960年3月26日
元首 ジョヴァンニ・グロンキ
共和国大統領

イタリア
47代 首相
任期 1955年7月6日1957年5月20日
元首 ジョヴァンニ・グロンキ
共和国大統領

出生 1891年2月2日
イタリア王国サッサリ
死去 (1972-12-01) 1972年12月1日(81歳没)
イタリアローマ
政党 キリスト教民主主義
配偶者 Laura Carta Camprino (1896~1977)

アントニオ・セーニ(Antonio Segni、1891年2月2日 - 1972年12月1日)は、イタリアの政治家。首相(第47・50代)、共和国大統領(第4代)を歴任。

概要

サルデーニャサッサリで地主の息子に生まれる。イタリア人民党に参加し党全国委員となるが、ベニート・ムッソリーニ政権下で人民党が非合法化されると大学で法律を講じて糊口を凌いだ。

ムッソリーニ政権が倒れるとキリスト教民主主義結党に参加、1946年に議員に選ばれ政界入りを果たした。デ・ガスペリ内閣で農相や国防相を歴任した後、1955年に首相となり1957年まで務めた。首相退任後にファンファーニ内閣で国防相となり、1959年から1960年まで再度首相兼内相。その後外相を経て、1962年に大統領に選出された。外相に在任していた1961年6月に日本を訪問した。

大統領在職中の1964年8月7日脳血栓で倒れ、12月6日に辞任。イタリアが共和制に移行して初めての任期途中での辞職となった。この間、ジュゼッペ・サーラガトが選出される12月29日まで、憲法の規定に基づき、大統領職は上院議長のチェーザレ・メルツァゴーラが代行した。

その後は闘病生活を送り、1972年12月1日、ローマ市内の病院で腎臓病疾患による心臓発作で死去[1]

息子のマリオ・セーニはタンジェントポリで一時頭角を現し、現在欧州議会議員。1970年代にイタリア共産党書記長としてユーロコミュニズムを推進したエンリコ・ベルリンゲル、1980年代に大統領を務めたフランチェスコ・コッシガはともに甥にあたる。

脚注

  1. ^ 訃報欄『朝日新聞』昭和47年12月2日.23面

関連項目

先代
マリオ・シェルバ
イタリア共和国首相
1955年 - 1957年
次代
アドネ・ツォーリ
先代
アミントレ・ファンファーニ
イタリア共和国首相
1959年 - 1960年
次代
フェルナンド・タンブロニ=アルマローリ
先代
ジョヴァンニ・グロンキ
イタリア共和国大統領
1962年 - 1964年
次代
ジュゼッペ・サーラガト




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