アレクサンドル・ヴァレフスキとは? わかりやすく解説

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アレクサンドル・ヴァレフスキ

(アレクサンドル=フロリアン=ユーゼフ=コロンナ・ヴァレフスキ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 04:35 UTC 版)

アレクサンドル・コロンナ=ヴァレフスキ
: Alexandre Colonna-Walewski
: Aleksander Colonna-Walewski
外務大臣在任中のコロンナ=ヴァレフスキ(1856年)
生年月日 (1810-05-04) 1810年5月4日
出生地 ワルシャワ公国ヴァレヴィツェ英語版
没年月日 (1868-10-27) 1868年10月27日(58歳没)
死没地 フランス帝国ストラスブール
配偶者 キャサリン・キャロライン・モンタギュー
マリアンヌ・ディ・リッチ英語版
子女 シャルル・ヴァレフスキ英語版

在任期間 1855年5月7日 - 1860年1月4日

立法院議長
在任期間 1865年8月29日 - 1867年3月23日
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アレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・コロンナ=ヴァレフスキフランス語: Alexandre Florian Józef Colonna-Walewskiポーランド語: Aleksander Florian Józef Colonna-Walewski1810年5月4日 - 1868年10月27日)は、フランス第二帝政の政治家、貴族。ナポレオン・ボナパルトと愛人マリア・ヴァレフスカとの間にできた庶子。

略歴

ナポレオン・ボナパルトと愛人マリア・ヴァレフスカの息子として、1810年5月4日にワルシャワ近くのヴァレヴィツェ英語版で生まれた[1]。1817年、7歳のときに母は病死した。何度か会っただけの実父ナポレオンも、1821年に死去した。

14歳のときにロシア帝国陸軍への入隊を拒否してロンドン、ついでパリに亡命した[1]。ロシア当局が移送を要求したが、フランス政府に拒否された[1]1830年革命英語版において、ポーランドで11月蜂起が勃発すると、フランス王ルイ・フィリップ1世によりポーランドに送り込まれ、蜂起軍はヴァレフスキを外交官としてロンドンに派遣した[1]。蜂起が失敗に終わった後、フランスに帰化してフランス陸軍に入り、アルジェに派遣されたが、1837年に除隊した[1]。1848年に従兄ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)が大統領になると接近し、駐ロンドン大使などを歴任した[1]。1855年にエドゥアール・ドルーアン・ド・リュイス英語版の後任として外務大臣に就任、1856年にパリで行われたクリミア戦争の講和会議にフランス代表として出席した[1]。1860年に外務大臣を退任して国務大臣フランス語版に転じ、1863年まで務めた[1]

議会では1855年から1865年まで元老院議員を務めた後、ナポレオン3世の主導で立法院に転じ、議長に就任した[1]。1866年に公爵に叙された後、1867年に立法院議長を退任して元老院に戻った[1]

1860年ごろから馬車で外出することもできないほどの体調不良となり、自宅に籠る[2]。1868年10月27日、ストラスブール脳梗塞のため死去した[1]

家族

1831年12月1日、キャサリン・キャロライン・モンタギュー(Catherine Caroline Montagu、1808年10月7日 – 1834年4月30日、第6代サンドウィッチ伯爵ジョージ・ジョン・モンタギューの次女)と結婚した[3][4]。2人は1男1女をもうけたが、いずれも早世した[5]

2人目の妻マリアンヌフランス語版

1846年、マリアンヌ・ディ・リッチフランス語版と再婚して、2男2女をもうけた。そのうちの一人であるシャルルフランス語版はクレディ・リヨネで人事部長を務めるが、第一次世界大戦で戦病死している。また女優のラシェル・フェリックスとの間にも庶子アレクサンドルをもうけ、アレクサンドルの息子にあたるアンドレフランス語版はタクシー事業で財を成した。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Walewski, Alexandre Florian Joseph Colonna" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 270.
  2. ^ 上田, 泰『パリ国立音楽院とピアノ科における教育(1841~1889):制度、レパートリー、美学』(博士(音楽学)論文・東京藝術大学音楽研究科音楽文化学専攻)東京藝術大学、2016年3月25日、117頁http://id.nii.ac.jp/1144/00000674/ 
  3. ^ Pine, Leslie G., ed. (1956). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (101st ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1817.
  4. ^ Lodge, Edmund (1872). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (41st ed.). London: Hurst and Blackett. p. 502.
  5. ^ Montagu, Edward George Henry, Sandwich, 8th Earl of (1910). Hinchingbrooke (英語). London: Arthur L. Humphreys. p. 25.

関連図書

外部リンク

公職
先代
エドゥアール・ドルーアン・ド・リュイス
外務大臣
1855年 – 1860年
次代
ピエール・ジュール・バロシュ
先代
アシーユ・フールフランス語版
国務大臣フランス語版
1860年 – 1863年
次代
アドルフ・ビヨー英語版
先代
シャルル・ド・モルニー
立法院議長
1865年 – 1867年
次代
ウジェーヌ・シュナイダー




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