アルベルト・バッサーマンとは? わかりやすく解説

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アルベルト・バッサーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/17 14:58 UTC 版)

アルベルト・バッサーマン
1940年の映画『海外特派員』から
本名 Albert Bassermann
生年月日 (1867-09-07) 1867年9月7日
没年月日 (1952-05-15) 1952年5月15日(84歳没)
出生地 マンハイム
国籍 ドイツ
職業 俳優
ジャンル 映画、舞台
配偶者 エルゼ・バッサーマン
主な作品
赤い靴』(1948年)
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アルベルト・バッサーマン(Albert Bassermann, 1867年9月7日 - 1952年5月15日)は、ドイツ俳優

経歴

ベルリン時代にバッサーマンが住んでいた住居に掲げられている記念銘板

マンハイムに生まれ、化学に関する高等教育を受けたが、1887年にマンハイムの劇場でボランティアスタッフとして参加したことから演劇を志し、俳優としての活動を始めた。その後マイニンゲンの劇場に4年間在籍してからベルリンに移る。1909年からはマックス・ラインハルトなどの下、ドイツ劇場で1915年まで研鑽を積んだ。

1913年からは優れた演技力から数多くのサイレント映画に主役級で出演。1934年オーストリア・トビス社製作の音楽映画『恋は終りぬ』で主演の田中路子を慕う老教授役で日本でも知られるところとなった。しかし、1908年に結婚していた女優のエルゼ(本名:エリザベート・ザラ・シフ、Elisabeth Sara Schiff)がユダヤ系であったことからナチス政権に女優活動を制限され、家族でスイスオランダ・オーストリアを転々としたのち、1938年3月13日に家族を伴いオーストリアからアメリカに渡った。アクセントの強い英語を武器にした性格俳優として映画・舞台で活躍した。

戦後、再び欧州へ戻り、ウィーンの国民劇場でナチス・ドイツの犠牲者へ捧げる公演であったヘンリック・イプセンの『幽霊』へも出演した。その後もいくつかの作品に客演したが、1952年にニューヨークからチューリッヒへ向かう機内で心臓発作を起こし、妻エルゼの腕に抱かれたまま亡くなった。マンハイム墓地の名誉墓碑の下に葬られている[1]

家族

妻のエルゼはライプツィヒ出身で、アルベルトの死後も女優やコラムニストとして活躍したが、1958年に病を得て、1961年5月29日、バーデン=バーデンにて83歳で亡くなった。

二人の間には1908年に生まれたカルメンという一人娘がいるが、長らく精神障害を患ったのち、1970年に交通事故で亡くなっている。

主な出演作品

バッサーマンは生存中に700のレパートリーをこなし、主演を含む通算70本への映画出演歴と10,000回を超える舞台出演歴を持つ。下記に、主な出演映画作品を挙げる。

公開年 邦題
原題
役名 備考
1913年 私の中の他人
Der Andere
Dr. Hallers
1917年 鉄の意思
Der eiserne Wille
1919年 最期の証拠
Der letzte Zeuge
1922年 ファラオの恋
Das Weib des Pharao
Sothis
ルクレツィア・ボルジア
Lukrezia Borgia
アレクサンデル6世
鉄仮面
Der Mann mit der eisernen Maske
コロンブス
Christoph Columbus
クリストファー・コロンブス
1923年 学生王子
Alt-Heidelberg
1929年 セント・ヘレナのナポレオン
Napoleon auf St. Helena
ハドソン・ロウ
1931年 愛の行方
Gefahren der Liebe
Dr.Ringius
予審
Voruntersuchung
Dr. Konrad Bienert
1933年 国際間諜団
Ein gewisser Herr Gran
Tschernikoff, Kunsthändler
1935年 恋は終りぬ
Letzte Liebe
トーマス
1940年 偉人エーリッヒ博士
Dr. Ehrlich's Magic Bullet
ロベルト・コッホ
海外特派員
Foreign Correspondent
ヴァン・メア
ロイター特派員
A Dispatch from Reuters
フランツ・ゲラー
1941年 女の顔
A Woman's Face
マグナス・バーリング
永遠の調べ
New Wine
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
1942年 戦場を駆ける男
Desperate Journey
メイザー
恋の情報網
Once Upon a Honeymoon
ボレルスキ
1943年 キュリー夫人
Madame Curie
ジャン・ペロ教授
1944年 君去りし後
Since You Went Away
Dr. Sigmund Gottlieb Golden
1945年 休暇異変
Strange Holiday
クレジットなし
アメリカ交響曲
Rhapsody in Blue
フランク教授
1947年 美貌の友
The Private Affairs of Bel Ami
ジャック・リヴァル
嘆きのプレリュード
Escape Me Never
ハインリッヒ教授
1948年 赤い靴
The Red Shoes
ラトヴ

表彰など

脚注

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参考文献

  • ゲアリンデ・ヴァツ『エルぜ・シフ・バッサーマン ある女優・脚本家の生きざま』《ドイツ映画博物館機関誌:Schauspieler im Exil 2000/12》
  • ローター・ガル『ドイツ市民の姿』

外部リンク


アルベルト・バッサーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 04:29 UTC 版)

イフラントの指輪」の記事における「アルベルト・バッサーマン」の解説

バッサーマン自身一度指輪をその指にはめたことがなかった。彼は生涯のうちに3人の後継者指名していたが、その3人よりも長生きすることとなった。 バッサーマンは、最初に後継者として選んだアレクサンダー・ギラルディ (Alexander Girardi) に先立たれ続いて2人目に選んでいたマックス・パレンベルク (Max Pallenberg) も彼より先に亡くなった3人目のアレクサンダー・モイッシ (Alexander Moissi) が世を去った際、バッサーマンはモイッシのの上指輪を置き、モイッシとともに火葬ししまおうとした。これを、ブルク劇場総監督だったヘルマン・レベリング (Hermann Röbbeling) が制止し、「指輪生ける俳優のものである、死せる俳優のものではない」と諭した。しかし、バッサーマンは指輪呪われているのだと考え4人目後継者を選ぶのを恐れた。 この一件以降指輪ウィーンオーストリア国立図書館寄託され、ほとんど忘れられたままここに眠っていた。1946年、バッサーマンがウィーン訪れた際、オーストリア劇場連盟の代表であるエゴン・ヒルベルト (Egon Hilbert) が2度わたってバッサーマンと会見した。バッサーマンは指輪を再び受け取ることを拒否し2度目会見では「指輪ヒルベルト好きなようにすればよい」と宣言した。 バッサーマンが1952年亡くなったのち、ヒルベルトヴェルナー・クラウス指輪受け継ぐよう求めたが、クラウスはこれをいったん拒否した

※この「アルベルト・バッサーマン」の解説は、「イフラントの指輪」の解説の一部です。
「アルベルト・バッサーマン」を含む「イフラントの指輪」の記事については、「イフラントの指輪」の概要を参照ください。

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