アルベルト・パシーニとは? わかりやすく解説

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アルベルト・パシーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 00:48 UTC 版)

アルベルト・パシーニ
Alberto Pasini
作者不詳の肖像画
誕生日 1826年9月3日
出生地 イタリア、ブッセート
死没年 1899年12月15日
死没地 イタリア、Cavoretto
運動・動向 オリエンタリズム
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アルベルト・パシーニ(Pietro Maria Alberto Pasini、1826年9月3日 - 1899年12月15日)はイタリア生まれの画家、版画家である。中東の風景を描いた。

略歴

現在のパルマ県ブッセートの高級役人の息子に生まれた。2歳の時、父親が亡くなり、母親とパルマの叔父の家に移った。叔父のアントニオ・パシーニは画家で、パルマの有名な出版業者、ジャンバッティスタ・ボドニ (Giambattista Bodoni)のために働いていた。17歳でパルマの美術学校に入学し、風景画を学び、美術学校の校長で版画家のパオロ・トスキ(Paolo Toschi: 1788–1854)から版画を学んだ。

1848年に第一次イタリア独立戦争のパルマ従隊(colonna di Modena)に参加し、しばらくトリノに滞在した後、1851年にパリに移り、トスキの指示で、版画家のルイ=ピエール・アンリケル=デュポン(Louis-Pierre Henriquel-Dupont: 1797-1892)の工房に入った。アンリケル=デュポンに、水彩画家で版画家のウジェーヌ・シセリ(Eugène Cicéri: 1813–1890)を紹介された。シセリはバルビゾン派の影響を受けて活動した画家である。1853年にパリのサロンに出展した。1854年にテオドール・シャセリオーの工房に移り、油絵を学び、シャセリオーのオリエンタリズムの絵画に影響を受けた。

1855年にシャセリオーの推薦で、フランスの外交使節団に記録画家として同行することになり、ペルシャ、トルコ、シリア、アラビア、エジプトを旅する機会を得た。この旅で多くの習作やスケッチを描き、後の絵画作品の材料を得た。フランスに戻った後は、カンヌなどでも活動した。その後も何度か中東を旅した。1870年に普仏戦争が始まると、イタリアに戻りトリノのCavorettoに住み、そこで亡くなった。

ナポレオン三世の時代にレジオンドヌール勲章を受勲し、1878年にイタリア政府から聖マウリッツィオ・ラザロ勲章を受勲した。

作品

参考文献

  • Roberto Lasagni, Dizionario biografico dei parmigiani, vol. III, Parma, 1999.
  • Anna Chiara Fontana, PASINI, Alberto, in Dizionario biografico degli italiani, vol. 81, Roma, Istituto dell'Enciclopedia Italiana, 2015.



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