アルベルト・ディ・ジュッサーノ_(軽巡洋艦)とは? わかりやすく解説

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アルベルト・ディ・ジュッサーノ (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/03 04:09 UTC 版)

基本情報
艦歴
起工 1928年3月29日
進水 1930年4月27日
就役 1931年2月5日[1]
その後 1941年12月13日戦没[1]
要目
基準排水量 5,110トン[1]
全長 169.3 m[1]
最大幅 15.5 m
吃水 5.3 m
最大速力 36.5ノット [1]
乗員 507名
兵装
  • 15.2cm連装砲×4基[1]
  • 10cm連装高角砲×3基[1]
  • 37mm連装機銃×4基[1]
  • 13.2mm連装機銃×4基[1]
  • 53.3cm連装魚雷発射管2基[1]
搭載機 2機(カタパルト発進)[1]
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アルベルト・ディ・ジュッサーノ (Alberto di Giussano) はイタリア海軍軽巡洋艦[1]アルベルト・ディ・ジュッサーノ級軽巡洋艦の1番艦で、ジェノヴァアンサルド社で建造され1931年に竣工、第二次世界大戦で戦没した[1]

艦歴

1928年3月29日起工。 1930年4月27日進水。1931年2月5日竣工[1]

1940年7月9日、戦艦「コンテ・ディ・カブール」、「カイオ・ジュリオ・チェザーレ」などとカラブリア沖海戦に参加した。

8月にはパンテレリア島沖で機雷を敷設した。その後は北アフリカへの輸送船団の支援に当たっていた。

1941年12月9日夕方、「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」は「アルベリコ・ダ・バルビアーノ」と北アフリカのドイツ軍への補給のためにパレルモを出撃した。だが、シチリア島トラーパニ沖でイギリス軍機に発見され攻撃を受けたため、2隻はパレルモへと引き返した。

12月12日夕方、ガソリンなどの物資を搭載した2隻は護衛の水雷艇「チーニョ」と再度出撃したがまたしてもイギリス軍機に発見されてしまう。これにより約1時間の遅れが生じイギリス艦隊に捕捉されてしまうこととなった。13日3時20分過ぎ、2隻はイギリス駆逐艦「シーク」、「マオリ」、「リージョン」、オランダ駆逐艦「イサーク・スウェールズ」の奇襲を受ける。3本の魚雷が命中した「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」は沈没。また「アルベリコ・ダ・バルビアーノ」も撃沈された。この戦闘はボン岬沖海戦という。

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 海人社 1987.

参考文献

  • 海人社(編)「写真シリーズ/なつかしの艦影/その118 イタリア軽巡洋艦「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」」『世界の艦船』第374号、海人社、1987年1月、28頁。 



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