アメリカ合衆国での政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:23 UTC 版)
「カール・シュルツ」の記事における「アメリカ合衆国での政治」の解説
1856年、ヨーロッパで1年間を過ごした後に、ウィスコンシン州ウォータータウンに転居し、すぐにウィスコンシン州の共和党でも傑出した存在になった。1857年、副知事の共和党候補になったが落選した。翌年イリノイ州でエイブラハム・リンカーンとスティーブン・ダグラスとの間に討論が行われたとき、シュルツも演説者として参加し、ほとんどドイツ語ではあったが、ドイツ系アメリカ人有権者の間にリンカーンの人気を高めることができた。この年に、ウィスコンシン州法廷弁護士として認められ、ミルウォーキーで法律の実習を始めた。1859年の州内遊説では、ウィスコンシン州最高裁が逃亡奴隷法を違憲と宣言していたので、逃亡奴隷法を攻撃する演説を行い、州の権限を論じた。しかし、ウィスコンシン州南西部には南部の者たちが多く移動してきていたので、シュルツの政治的立場は難しくなった。州外では、1859年4月18日にボストンのファニエル・ホールで「真のアメリカ主義」について演説を行い、外国人の立場で「移民排斥主義」に対して共和党の姿勢を明確にすることが意図された。ウィスコンシン州のドイツ人は、1859年の州知事選に共和党の候補にシュルツを推そうとしたが失敗した。1860年の共和党全国大会で、シュルツはウィスコンシン州代議員の代弁者となり、大統領候補として初めはウィリアム・スワードに投票した。指名投票は3回目までもつれ、最終的にはリンカーンの指名を宣言することになった。
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