アメリカでの壁画運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 10:11 UTC 版)
「メキシコ壁画運動」の記事における「アメリカでの壁画運動」の解説
オロスコは母国で批判されたため1929年に、リベラも共産党から除名され1930年にそれぞれアメリカ合衆国へ渡った。その頃アメリカは大恐慌に陥っていたが、職を失った芸術家の生活や制作を維持するため、ニューディール政策の一環として連邦美術計画による壁画制作が行われていた。リベラやオロスコは、多くの若手画家を助手に雇って美術館や大学など公共施設の壁画を手がける。オロスコはダートマス大学の壁画『アメリカ文明の叙事詩』が高く評価された。リベラもデトロイト美術館などに壁画作品を制作するが、ロックフェラー・センターの壁画にアメリカの建国者たちに混じってレーニンが描かれていたことで批判され、壁画は完成前に破棄された。彼らは1933年から1934年までに相次いでメキシコに帰るが、その間壁画制作の助手として雇われた若手芸術家や、同様に壁画を作っていたアメリカの作家たちに対して、大きな画面で制作するということの意義や手法などの面で大きな影響を与えた。
※この「アメリカでの壁画運動」の解説は、「メキシコ壁画運動」の解説の一部です。
「アメリカでの壁画運動」を含む「メキシコ壁画運動」の記事については、「メキシコ壁画運動」の概要を参照ください。
- アメリカでの壁画運動のページへのリンク