アフメド・パシャ(1723年 - 1747年)
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「イラクのマムルーク朝」の記事における「アフメド・パシャ(1723年 - 1747年)」の解説
ハサンの息子とその後継者アフマド(グルジア語: აჰმედ ფაშა)はマムルークの獲得を続け、軍隊と行政の中枢に彼らを昇進させた。ハサンとアフマドは、支配に属さない部族の緩衝となり、コンスタンティノープルの国庫への税金を経常的に確保し、その上イランのサファヴィー朝からの軍事的脅威に対抗する防壁となることで、オスマン朝政府(Porte)に価値ある奉仕をなしているとの印象を与えた。 1747年にアフマド・パシャが死亡した時、彼のマムルーク達は2000人からなる永続的なエリート軍団(グルジア護衛)を組織した。アフマドの死で、オスマン朝のスルタンは、これらマムルークが権力を掴むことを妨げようと試み、バグダードに彼の代官(ワーリー)として外部の人員を派遣した。しかしアフマドの義理の息子スレイマン・アブー・ライラは、赴任先のバスラから、彼のグルジア人護衛のリーダーとしてバグダードに進軍し、オスマン朝の知事を追放し、この後84年間のマムルークによるイラク支配が始まった。
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