アスト部の滅亡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アスト部の滅亡の意味・解説 

アスト部の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:10 UTC 版)

アスト部」の記事における「アスト部の滅亡」の解説

北元時代末期アスト部領主はボディダラの末子ノムダラ・フルチ・ノヤンで、彼はトゥメン・ジャサクト・ハーン五大執政一人数えられるなど、有力諸侯として知られていた。 17世紀初頭建州女直内で急速に勢力拡大したヌルハチは、1616年アイシン国(後金)を建国した。ヌルハチの後を継いだホンタイジ周辺モンゴル系勢力次々と取り込み遂に1627年にはホルチン・内ハルハ5部に加えチャハル部オトクまでをも傘下入れたこのような事態危機感懐いたチャハル部の長リンダン・ハーン西方支配圏を拡大することを決意し、翌1628年にはアスト部遊牧地に現れた。チャハル軍とアスト・ハラチン・トゥメト連合軍は埃不哈で戦いアスト部連合軍はこの戦いで壊滅的な大敗北を蒙った。アスト部はこの一戦壊滅的大打撃被りハラチン部遊牧地に逃れようとしたノムダラの7子は道中アバガ部の攻撃受けて5人が殺され、ここに至って生き残ったらは清朝への投降決意した。しかしアスト部はもはや独立した遊牧集団として自立することはできず、生き残ったアスト人は満洲八旗の鑲白旗・正紅旗・鑲紅旗正藍旗などに編入されアスト部は完全に滅亡した

※この「アスト部の滅亡」の解説は、「アスト部」の解説の一部です。
「アスト部の滅亡」を含む「アスト部」の記事については、「アスト部」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アスト部の滅亡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アスト部の滅亡」の関連用語

アスト部の滅亡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アスト部の滅亡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアスト部 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS