ふたりのトゥアンフォーによる反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:49 UTC 版)
「チャム族」の記事における「ふたりのトゥアンフォーによる反乱」の解説
ベトナム南部、タイニン省・アンザン省・ホーチミンシティーのシャーフィイー法学派集団は、アッラーに帰依し、カンボジアやマレーシア、インドネシア、ハドラマウト地方など世界のシャーフィイー・ムスリム共同体とつながりをもつ。インラサラーが収集した伝承によれば、1790年代、メッカ(マカハ、おそらくはクランタン)から来たと自称するトァアンフォー Tuen Phaow(大南寔録前編では鑚扶)がパンラン、パリクでイスラム復興運動を行い、バニーの信仰を改革しようとして当時のチャム王と阮朝に対し反乱を起こした。この復興運動はシャーフィイー法学派の正しい信仰生活を復興しようとしたものであり、戦いに敗れたトゥアンフォーは信徒のチャムや山地民とともにカンボジアに逃げた。1810年ごろのカンボジアのムスリム廷臣として同名のトゥアンフォー Tuan Pho がいるが、ふたりが同一人物であることは証明されていない。この(カンボジア廷臣であったほうの)トゥアンフォーの息子たちが1840年代に当時のカンボジア王と越軍(阮朝のカンボジア駐留軍)に対して反乱を起こしたとき、ふたりのチャム貴族、ジャ・イン Ja In とジャ・バイ Ja Bai が数千人のチャムを率いて、張明講が率いる越軍とともにカンボジアからベトナム南部(メコンデルタのチャウドック)へ退却・亡命した。
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