木下孟寛(きのした たけひろ? 1840-1917)
陸軍参謀局勤務、清国への「地図売渡し事件」に連座
木下孟寛は、地理測量と製図の技術者を養成する時習義塾教授であると同時に、参謀局第6課員として地図作成にあたる。木村信卿課長らの清国への「地図売渡し事件」に関連し降等、辞職した。時習義塾開業願にある履歴によれば、安政2年より(水戸藩の)酒井喜雄に従って地理学を研究し、その後明治3年に地理兼土木大合史を拝命、同5年に正院地誌課に転任したとある。
同事件に関係して刑務所で自殺した渋江信夫は、木下孟寛の兄にあたる。
それだけではない。彼らの父酒井喜熈の5男が、すべて地図作りに関係している。長男吉郎は夭折したが、時習義塾塾頭として地図製図技術者を養成したのは次男の酒井喜雄、次いで陸軍参謀局と時習義塾にあった木下孟寛(木下家に養子、のち宗孟寛)、同じ陸軍参謀局と時習義塾にあった渋江信夫(渋江家に養子)、地図製作をした酒井捨彦(横山大観の父)、日本分国地図などを作製した酒井彪三である。
木下孟寛は、地理測量と製図の技術者を養成する時習義塾教授であると同時に、参謀局第6課員として地図作成にあたる。木村信卿課長らの清国への「地図売渡し事件」に関連し降等、辞職した。時習義塾開業願にある履歴によれば、安政2年より(水戸藩の)酒井喜雄に従って地理学を研究し、その後明治3年に地理兼土木大合史を拝命、同5年に正院地誌課に転任したとある。
同事件に関係して刑務所で自殺した渋江信夫は、木下孟寛の兄にあたる。
それだけではない。彼らの父酒井喜熈の5男が、すべて地図作りに関係している。長男吉郎は夭折したが、時習義塾塾頭として地図製図技術者を養成したのは次男の酒井喜雄、次いで陸軍参謀局と時習義塾にあった木下孟寛(木下家に養子、のち宗孟寛)、同じ陸軍参謀局と時習義塾にあった渋江信夫(渋江家に養子)、地図製作をした酒井捨彦(横山大観の父)、日本分国地図などを作製した酒井彪三である。
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