お由羅騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:29 UTC 版)
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児に正室・弥姫(周子)(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた(次男・斉敏は岡山池田家を継いでいた)。本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動(お由羅騒動)が勃発した。これは、斉彬の擁立を望む山田清安、高崎五郎右衛門、近藤隆左衛門ら50余名が対立する久光とその生母・お由羅の暗殺計画を謀ったものであるが、事前に計画が露見して自害させられた事件である。その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えなかったが、嘉永4年(1851年)2月、老中・阿部正弘の調停により、斉興は隠居し、斉彬が家督を継ぐ事となったのである。
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