いちじゆくやプラットホームも夢の端
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
花骨集 |
前 書 |
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評 言 |
小さな私鉄の小さな駅。プラットホームの端に無花果が生っている。いつもの駅なのであるが、焦点を合わすでもなく景を眺めているうちに、ああこれは夢の端、夢の続きではないかと思った。この句をそのように読んだ。 夢は不思議だ。覚めなければ夢ではない。夢と知ることはないからだ。夢か現か・・・・意識して夢の続きを見ようとする。そして上手く続きを見る。なあんだ、けっこう夢を制御することが出来るじゃないか、と思っても、そのことを含めて夢だよ、ともう一人の私が言うと、ああ夢なんだなと思ってしまう。 もう一つ夢の話。夢から覚めて「懐かしい風景」が夢に出てきたと思う。そして以前にも何回かこの風景の夢を見たな、と思う。しかしまてよ、「何回かこの風景の夢を見た」ということも夢の中にすり込まれていたら、「何回か見た」という思いは夢か現か分からなくなるではないか。 さてさて通勤の電車を待つ小さな「プラットホーム」も「いちじゆく」も夢でありうる。そう、シェイクスピアの『テンペスト』の台詞、「わたしたちは夢と同じものでできている」を思い出すのである、嗚呼。 |
評 者 |
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備 考 |
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