『常陸風土記』と儒教思想
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『茨城県史』において志田諄一は、『常陸風土記』は編纂者(藤原宇合をその中心と見るのが通説)の儒教思想の影響が濃厚である事を指摘し、「旧聞遺事」などは必ずしも在地の伝承をそのまま記したものではなく、全般的に儒教的、合理的な内容へと改編されているとする。夜刀神について言えば、その姿を見た者を一族諸共に滅ぼす神ではあるが、同時にそれ程の「霊威すさまじい」神でもあり、従って在地の農耕の成否を左右する国魂神として不可欠の存在であった筈であり、それを駆逐する行為は本来的にありえず、原話では麻多智が夜刀神を敬い祀る事で土地の開発と子孫の繁栄が得られたために、今(『風土記』編纂の時代)に至るまで祭祀を司っているといった内容であったのを儒教的に説明し直したものと見る。また壬生麿の場合、麿は国造であり、その重要な職務として支配地の国魂神を祀って作物の豊穣を祈った筈なので、これも「打ち殺せ」などと叫ぶ筈はなく、同様に儒教的改変を与えたものであり、しかも「民政のために云々」との神への叱責は、実は非儒教的に土俗的な神を崇める在地の郡司層(いわゆる旧国造層)へ向けての編纂者の叱責であり、そこには「律令貴族の思いあがりの姿」しか見えないとする。
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