「ブラジル拓植組合」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
「日系ブラジル人」の記事における「「ブラジル拓植組合」」の解説
1927年には、三菱財閥が「東山農場(Fazenda Monte D'este)」を始めるなど、日本企業の進出も小規模ながら開始された他、サンパウロ州への日本人移民の過度の集中による排斥機運の高まりを緩和させるため、パラナ州やマットグロッソ州(旧名、多くは現在の南マットグロッソ州)など他の州への入植も積極的に進められることとなった。 またこの頃、多くの移民を送り出していた各県が「海外移住組合連合会」を設立し、資金を出して集団入植地を購入し、移民が組合から資金の貸付を受けて土地を購入して入植する事業が開始された。その後海外移住組合連合会は、これらの新規移民による集団入植をサポートする機関として、1929年4月に「ブラジル拓植組合(Sociedade Colonizadora do Brazil Limitada、ブラ拓)」を設立した。 その後ブラジル拓植組合は、ブラジル拓殖組合商事部やブラジル拓殖組合鉱山部、ブラジル拓殖組合綿花部、ブラジル拓殖組合製糸部などを傘下に持ち、様々な領域に事業を拡大した他、1937年には日本人移民や日系ブラジル人への融資などを行う銀行部も設立した。その後1940年に銀行部はサンパウロ市を拠点とした「南米銀行」となり、業務範囲を拡大し1998年まで業務を行った(その後はスダメリス銀行へ事業ごと吸収され、さらに同行はABNアムロ銀行に買収された)。
※この「「ブラジル拓植組合」」の解説は、「日系ブラジル人」の解説の一部です。
「「ブラジル拓植組合」」を含む「日系ブラジル人」の記事については、「日系ブラジル人」の概要を参照ください。
- 「ブラジル拓植組合」のページへのリンク