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大友氏

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 14:25 UTC 版)

大友氏(おおともし)は、武家士族だった日本氏族鎌倉時代初期に相模国大友郷に興った[2]。鎌倉時代に豊後国大野荘の地頭職や豊後守護に補任され、南北朝時代室町時代には、豊後国、豊前国筑後国を支配する有力守護大名となり、戦国時代には戦国大名化した[2]大友義鎮(宗麟)の代に肥前肥後筑前も支配して最盛期を迎えたが[2]。天正15年(1587年)の豊臣秀吉九州平定後に所領は豊後一国に削減され、さらに朝鮮出兵の際の大友義統の不手際のために秀吉の怒りに触れ、天正20年/文禄元年(1593年)に除封された[2]


注釈

  1. ^ 日本最古の家紋集『見聞諸家紋』に大友豊後守親繁の杏葉として登録されている。江戸時代の『大友公御家覚書』には大友家が同紋衆に下賜した家紋「茗荷の丸なり。但しわりみやうか、きやうえうの御紋とこれをいふなり。杏葉又蓑蓉とも書くなり。」とあり、これによると大友氏の紋は、茗荷の丸割茗荷杏葉が正式である。
  2. ^ 逆に考えれば、これらの説が鎌倉時代には存在しなかった = 事実ではないことを示していると考えられる[5]
  3. ^ 系図では後者を採用。
  4. ^ この異説では、母は紹運の子の立花宗茂の娘とされる。

出典

  1. ^ 『姓氏』(丹羽基二著作/樋口清之監修)が引用する「大友系図」より。
  2. ^ a b c d 日本大百科全書(ニッポニカ)『大友氏』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e 松田敬之 2015, p. 164.
  4. ^ 太田 1934, p. 1240.
  5. ^ 渡辺澄夫「野津本『大友系図』の紹介―大友氏出自に関する決定的史料―」『大分県地方史』134号、1989年。/所収:八木 2014
  6. ^ a b c d e f g 史跡大友氏遺跡保存管理計画 第1章 大友氏遺跡の概要と価値”. 大分市教育委員会 (2014年3月31日). 2018年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月7日閲覧。
  7. ^ 太田 1934, p. 1245.
  8. ^ 2015高橋
  9. ^ 八木直樹「十六世紀後半における豊後府内・臼杵と大友氏―城下町移転に関する再検討―」『ヒストリア』204号、2007年。/所収:八木 2014
  10. ^ a b 塙保己一 編「大友系図」『群書系図部集4, 第3巻』八木書店、1973年、368頁。ISBN 4797102764 


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