CIMA (プロレスラー) 経歴

CIMA (プロレスラー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 07:47 UTC 版)

経歴

闘龍門入門以前

中学生のころ、兄と見に行ったウルティモ・ドラゴンのプロレスを見て感動してプロレスラーを目指す。高校生の頃は部活にも入らずトレーニングとアルバイトの日々を送り、時にはアルバイトのために学校を休むこともあった。貯まったアルバイト代でメキシコへ渡り、ドス・カラスに師事する。電話で母の声を聞いてホームシックにかかり帰国するが、その後もプロレスのためにトレーニングとアルバイトを3年間続けた(この時、非公認ではあるが、プロのリングでの試合も経験)。

メキシコ修行と前後してアマチュアプロレス団体最大手のJWA関西に入団してアマチュアプロレスデビュー。覆面レスラー「ミッキー隼野Jr.」として当時から非凡な才能を発揮していた。ミッキー隼野はJWA関西にて一時代を築いたアマチュアプロレス界屈指の名選手で、Jr.として名を継いだことからも期待の逸材であったことが窺える。なお、現在所属しているDRAGON GATEの意向により、同じくJWA関西に所属していた吉野正人と同様にアマチュアプロレスのJWA関西で活動していたキャリアについては公式に公表されていない。

闘龍門

その後、ウルティモ・ドラゴンが立ち上げるというプロレススクール「闘龍門」の記事を見て一念発起。闘龍門の1期生に応募。1期生の枠4人のうち、すでに旗揚げ以前からウルティモ・ドラゴンと面識のあった黒木克昌(マグナムTOKYO)、藤井達樹(現:ドン・フジイ)、諏訪高広(現:SUWA)の3名が決定しており、最後の1人を決める際に、ウルティモ・ドラゴンが知人である三遊亭楽太郎の妻に依頼して、選ばれたのがCIMAである。

1997年5月11日、メキシコのアレナ・ナウカルパンにおける対黒木克昌戦で大島伸彦の名でデビュー[1]。その後、シーマ・ノブナガに改名。

ユニットのCRAZY-MAXを1期生のSUWA、フジイと共に結成(その後TARUが加入し、4人体制に)、最年少ながらリーダーとなった。日本上陸後、しばらくしてSHIIMAに、その後CIMAへ改名する。

2000年に開催された第3回「スーパーJカップ」では、決勝で獣神サンダー・ライガーに敗れて準優勝となったが、一躍日本のジュニア界にその名を知らしめた。

その後、M2Kイタリアン・コネクションと抗争を繰り返す。

DRAGON GATE

2004年、闘龍門から闘龍門ジャパンが独立しDRAGON GATEとなると、同団体でもエースとなった。闘龍門JAPAN時代に保有していたUDG王座は封印されることとなったが、代わりに新設されたオープン・ザ・ドリームゲート王座の初代王者に認定された。

また、C-MAX解散後は後継軍団といえるブラッドジェネレーションを結成。ヒール集団として暴れまくるも、Gammaが加入してから徐々に確執が表面化し、ユニットは分裂。ROHのメンバーを加えて国際派BGを結成。その後、BGを解消して、ドラゴン・キッド横須賀享斎藤了らとタイフーンを結成。しかし2006年11月23日にGammaとの敗者髪切マッチに敗れ、丸坊主にされた。

2007年7月、神戸ワールド記念ホールで獣神サンダー・ライガーを破り、オープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取。2007年10月8日、ツインメッセ静岡ストーカー市川を破り、オープン・ザ・お笑いゲート王座を奪取して2冠王となった。しかし9月22日・大田区大会のオープン・ザ・ドリームゲート戦(対土井成樹)で首を負傷し、救急車で運ばれる。しばらくは、それを感じさせないファイトを繰り広げていたが2008年4月頃から首が悪化し、5月5日の名古屋大会を最後に欠場。6月6日にリハビリマッチを行うも、半年以上欠場を余儀なくされた。6月29日の大阪府立体育会館第2競技場大会にて、鷹木信悟B×Bハルクがオープン・ザ・ドリームゲート王座次期挑戦者決定戦にて60分時間切れドロー。これによりオープン・ザ・ドリームゲート王座返上を決意[2]

2008年12月28日、福岡国際センター大会で復帰。オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座戦で獣神サンダー・ライガーと組んで王者組のYAMATOサイバー・コング組に挑戦するもYAMATOのスリーパー・ホールドにより失神、TKO負けを喫した[3](同日、所属ユニットのTyphoonも解散)。

2009年1月には音信不通となり、ヨーロッパで復帰に向けて極秘にトレーニングを積んでいたらしい。その間、ブログや週刊プロレスのコラム等も休止状態となっていた。また東京スポーツの一面では、失踪してるという記事が取り上げられていたが、現地2月10日にアメリカのWWEのトライアウトを受験し、シバのリングネームでSmackDown!ダーク・マッチで、ジェイミー・ノーブルと対戦したが敗れた。

その後、当初から復帰予定であった3月1日DRAGON GATEの大阪府立体育会館第2競技場大会で、Gammaに呼び込まれリングに登場。新ユニットWARRIORS-5の結成と3月5日後楽園ホール大会からの完全復活を宣言。3月22日、両国国技館大会で吉野を破り、自身初のオープン・ザ・ブレイブゲート王座を獲得した。

2010年6月18日、大阪プロレスとの全面対抗戦でビリーケン・キッドを破り、大阪プロレス王座を奪取した。この際獲ったベルトをゴミ袋などに入れるなどの暴挙にでる。

シフトチェンジと称しWARRIORSと土井軍と合体。過去に存在したブラッドジェネレーションの名を使いBlood Warriorsを結成する。また「ノマドレスラー」と称し、2011年より2012年3月まで年間ではなく月単位契約となっていた(土井、戸澤も同様の形)。

2011年12月25日、福岡国際センター望月成晃からオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取し第14代王者となった。しかし、2012年1月19日の敗者ユニット脱落マッチでクーデターを起こされ、Blood Warriorsを追放された。翌日から救出に入ったフジイと夫婦タッグを復活、その後Gamma、市川、望月と第2次ベテラン軍(後の帰ってきたベテラン軍)を結成。

その後もドリームゲート王座の防衛を続け、ジミー・ススムPACサイバー・コング堀口元気H.A.Gee.Mee!!戸澤陽YAMATO、土井、吉野、B×Bハルク鷹木信悟(3way)、斎藤“ジミー”了ジミー・神田、吉野、K-ness.、戸澤、リコシェを相手に計15度の防衛に成功。2013年7月21日神戸ワールド記念ホールで鷹木信悟に敗れ、1年8ヶ月保持していた王座から陥落したが、同王座の最多連続防衛記録(15回)、最長保持記録(574日)を樹立[2]

2014年11月6日、後楽園ホールの解散コントラ送還マッチでミレニアルズに敗れ、オレたちベテラン軍は解散となった。さらに12月3日の後楽園ホール大会でEita&T-hawk組にツインゲート王座を奪取され、土井ダーツによりMAD BLANKEY入りが決定。

2015年5月5日、金網マッチ後にドン・フジイ、Gammaと共にMAD BLANKYを追放される。

6月14日、共にMAD BLANKEYを追放されたドン・フジイ、Gammaとトライアングルゲートのベルトを奪取した。それから4度の防衛に成功したが、11月1日、4度目の防衛戦を終えた後、ベルトを返上。11月1日、OVER GENERATION結成。

12月27日、鷹木信悟の持つオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦。Gammaの汚水攻撃、ドン・フジイのノド輪落とし、そして、望月成晃の三角蹴りを決め、自身のフィニッシュ・ホールドであるメテオラを何度も決めて、鷹木を追い詰めたが最後にメテオラを決めようとした所に鷹木が起き上がり、鷹木の雪崩式ブレーンバスターを受け、その後は、反撃ができず鷹木のラストファルコンリーで敗北。

2016年11月3日、大阪府立体育会館にて、ジミー・ススム、ジミー・カゲトラを破り、ドラゴン・キッドとともに、第40代のツインゲート王者となり(CK-1としては初戴冠)その後、8度の防衛に成功する。

2017年12月5日、キッドの負傷欠場により1年以上にわたり保持してきたツインゲート王座を返上、横須賀ススムとのタッグでT-Hawk&Eitaと新王者決定戦を戦うことに。

OWE

2018年5月7日、岡村隆志が代表を辞任し、CIMAは株式会社ドラゴンゲートの代表に就任する形でDRAGON GATEから離れる(経営はDRAGON GATE株式会社)。中国上海市を中心とした海外事業を展開してCIMAと共にT-Hawkエル・リンダマン山村武寛と共に海外を中心に活動することになり、共にDRAGON GATEから「OWE」へ移籍となった。また、日本国内の参戦は、不定期とされた。ユニット「#STRONGHEARTS」を組み、国内ではW-1DDT九州プロレスなど他団体に精力的に参戦している。2019年11月、団体の活動拠点を上海からカンボジアシェムリアップへ移した。2019年12月30日には、初の後楽園ホール興行を開催し、全試合 OWE vs 国内団体の対抗戦を繰り広げた。

2021年2月20日、全日本プロレス名古屋国際会議場大会において、岩本煌史が保持する世界ジュニアヘビー級王座に挑戦し勝利。第54代王者に輝き、自身としてもオープン・ザ・ドリームゲート王座以来8年ぶりのシングル王者となった。

GLEAT

2021年3月12日、自主興行「ACTION MAX!」新宿FACE大会にて、CIMAを含める#STRONGHEARTSの4名がGLEAT入団を発表し、翌日には入団会見をした。

2022年

1月4日、新日本プロレスのレッスルキングダムの第0試合 『KOPW 2022』進出権争奪戦ニュージャパンランボーにサプライズで登場。翌日のタイトルマッチに参加できる4人の中に残る。

3月1日、新日本プロレスの日本武道館大会「旗揚げ記念日」にて、T-Hawk、エル・リンダマンと共に#STRONGHEARTS/GLEATとして参戦。エル・デスペラード金丸義信DOUKIの鈴木軍3人と対決し勝利。

その後行われたNEW JAPAN CUPにも唯一の外敵として参戦。TAKAみちのく、金丸義信、後藤洋央紀を下しベスト8まで勝ち進んだが、3月20日の長岡大会で闘龍門の後輩でもあるオカダ・カズチカに敗れ優勝はならなかった。

2023年3月1日開催の『ジュニア夢の祭典 〜ALL STAR Jr. FESTIVAL 2023〜』では当日発表の第7試合にサプライズ出場[4]







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