金閣寺放火事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 10:14 UTC 版)
事件の経緯
1950年7月2日午前3時、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。当時の金閣寺には火災報知機が7箇所に備え付けられていたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。
鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市成生出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われた。夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕された。林は救命処置により一命を取り留めている。
産業経済新聞記者・福田定一(後の作家・司馬遼太郎)は、この事件の取材にいち早く駆けつけた。
動機
逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務職が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの小説家により文学作品が創作された(詳細は後述)。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
また、服役中に統合失調症(精神分裂病)の明らかな進行が見られたことから(後述)、彼を精神鑑定した医師である加藤によれば、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある[1][2]。
その後
事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、彼女は彼の実家がある大江[3]への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。
林の精神鑑定を行ったのは、後に国立京都病院に精神科を設立し、医長となる加藤清である。1950年12月28日、林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち、服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死した。
親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も花が手向けられている。
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