江川卓 (野球)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 13:15 UTC 版)
西本聖とのライバル関係
現役時代の江川のライバルとして西本聖がいる。元々は「空白の一日事件」で江川が巨人に入団した際、球団が先発ローテーションの一角を無条件で江川に与えたため、ドラフト外から這い上がって先発ローテーション枠をつかみかけていた西本が一方的に江川をライバル視していたが、沢村賞の一件以降、江川も西本を「唯一のライバル」として意識するようになった[78]。食事はもちろん、新聞や雑誌などの取材でも頑なに二人での取材を避けたという。二人にまつわる逸話として、以下のようなものがある。
- 投球練習の際にお互いに意地になって330球以上も投球した。
- お互いが先発している試合で「頼むから打たれてくれ」と思っていた。
- 1983年、西武ライオンズとの日本シリーズ第6戦で抑えに自分が登板すると思っていたところ、第7戦先発予定の西本が呼ばれたため緊張の糸が切れてしまった(9回に西本が同点に追いつかれ、10回に江川が登板するもサヨナラ負けを喫した)。
- 1980年から1987年まで交互に4回ずつ開幕投手を務めたが、江川の年はいずれもチームは優勝していない(西本の年は3回優勝)[† 29]。
- 江川が入団した1979年から引退する1987年までの9年間において、シーズン勝利数で西本が江川を上回った年は1度もない(1984年のみ同じ15勝だが、西本が11敗しているのに対し江川は5敗だった)。
ただし、引退後は同じ伊東会のメンバーとしてお互いに親交を深めている[79]。
人間関係
好敵手であった掛布雅之とは、現役時代にはオールスターゲームの際に言葉を交わす程度であったが、掛布の引退後に解説者として仕事をともにするようになってから親交を深めた[80]。
巨人入団の際に小林繁に迷惑をかけたことに対して負い目を感じていた江川は、恨みの感情がありながら江川の気持ちを察していた小林とは、お互いを避けるような形になっていた。そんな時巨人入団3年目の1981年(昭和56年)、江川は都内のステーキハウスでばったり小林に出会った。向こうのテーブルまで「おわびに行こう」と席を立った時、それに気づいた小林がうなずいて手で制した。江川は、「もう分かったから、来なくてもいいよ。そう言われたような気がした」という[28]。
以降は引退後もほとんど会話がなかったが、2007年10月12日からオンエアされた黄桜のCMで江川と小林は対談という形で共演した[1]。リハーサルもなく撮影された中で、小林が、「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな!二人ともしんどかった」と江川に語りかけた。のちに江川は「この対談で初めてお互いのわだかまりが取れた」と語っている。
また、「小林さんから『お互いに大変だったなぁ』という言葉をいただいた時、すごくホッとしたのを覚えています。撮影が終わると『元気でやれよ』と声を掛けられて…。それが最後の小林さんの言葉です」とも語っている[28]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 巨人 | 27 | 23 | 7 | 2 | 1 | 9 | 10 | 0 | -- | .474 | 653 | 161.0 | 132 | 22 | 50 | 3 | 0 | 138 | 0 | 1 | 57 | 50 | 2.80 | 1.13 |
1980 | 34 | 34 | 18 | 5 | 2 | 16 | 12 | 0 | -- | .571 | 1055 | 261.1 | 226 | 34 | 60 | 5 | 2 | 219 | 0 | 0 | 88 | 72 | 2.48 | 1.09 | |
1981 | 31 | 30 | 20 | 7 | 3 | 20 | 6 | 0 | -- | .769 | 931 | 240.1 | 187 | 27 | 38 | 2 | 4 | 221 | 0 | 1 | 68 | 61 | 2.29 | 0.94 | |
1982 | 31 | 31 | 24 | 6 | 10 | 19 | 12 | 0 | -- | .613 | 994 | 263.1 | 200 | 36 | 24 | 2 | 3 | 196 | 0 | 0 | 77 | 69 | 2.36 | 0.85 | |
1983 | 33 | 29 | 10 | 2 | 2 | 16 | 9 | 3 | -- | .640 | 883 | 217.2 | 187 | 27 | 59 | 5 | 2 | 131 | 1 | 0 | 83 | 79 | 3.27 | 1.13 | |
1984 | 28 | 28 | 13 | 3 | 2 | 15 | 5 | 0 | -- | .750 | 782 | 186.0 | 186 | 20 | 58 | 4 | 3 | 112 | 0 | 0 | 80 | 72 | 3.48 | 1.31 | |
1985 | 30 | 26 | 3 | 1 | 0 | 11 | 7 | 0 | -- | .611 | 735 | 167.0 | 188 | 34 | 56 | 2 | 3 | 117 | 1 | 0 | 102 | 98 | 5.28 | 1.46 | |
1986 | 26 | 26 | 8 | 1 | 2 | 16 | 6 | 0 | -- | .727 | 791 | 194.0 | 172 | 27 | 49 | 4 | 4 | 119 | 1 | 1 | 64 | 58 | 2.69 | 1.14 | |
1987 | 26 | 25 | 7 | 0 | 1 | 13 | 5 | 0 | -- | .722 | 685 | 166.2 | 150 | 26 | 49 | 6 | 2 | 113 | 1 | 0 | 71 | 65 | 3.51 | 1.19 | |
通算:9年 | 266 | 252 | 110 | 27 | 23 | 135 | 72 | 3 | -- | .652 | 7509 | 1857.1 | 1628 | 253 | 443 | 33 | 23 | 1366 | 4 | 3 | 690 | 624 | 3.02 | 1.12 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- 最優秀選手:1回(1981年)
- ベストナイン:2回(1980年、1981年)
- 月間MVP:2回(1981年7月、1981年8月)
- 最優秀投手:2回(1980年、1981年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1981年)
- オールスターゲームMVP:1回(1984年第3戦)
- 後楽園MVP賞:1回(1980年)
- ジュニアオールスターゲーム最優秀投手賞:1回(1979年)
- 報知プロスポーツ大賞:1回(1981年)
記録
- 初記録
- 初登板・初先発:1979年6月2日、対阪神タイガース11回戦(後楽園球場)、8回5失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表にマイク・ラインバックから
- 初勝利・初先発勝利:1979年6月17日、対広島東洋カープ11回戦(後楽園球場)、7回1/3を1失点(自責点0)
- 初完投勝利:1979年8月14日、対阪神タイガース21回戦(後楽園球場)、9回1失点
- 初完封勝利:1979年8月26日、対広島東洋カープ19回戦(後楽園球場)
- 初セーブ:1983年7月29日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、8回裏一死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
- 節目の記録
- 1000投球回:1983年6月14日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、1回表二死に達成
- 1000奪三振:1984年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(後楽園球場)、2回表に玄岡正充から ※史上69人目
- 100勝:1985年6月4日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で6回2/3を6失点 ※史上88人目
- 1500投球回:1986年4月4日、対ヤクルトスワローズ1回戦(後楽園球場)、4回表一死に達成
- その他の記録
- 最多奪三振:3回(1980年、1981年、1982年) ※当時連盟表彰なし[† 30]
- 最高勝率:2回(1981年、1984年) ※当時連盟表彰なし[† 31]
- 投手三冠王:1回(1981年)※史上13人目
- 投手4冠:1回(1981年)※史上8人目
- 投手5冠:1回(1981年)※史上6人目
- シーズン10無四死球試合(1982年) ※セ・リーグ記録
- オールスターゲーム出場:8回(ファン投票選出:1982年、1985年/監督推薦:1980年、1981年、1983年、1984年、1986年、1987年)
背番号
- 3(1979年)- 阪神タイガース
- 30(1979年 - 1987年)- 読売ジャイアンツ
注釈
- ^ 1966年のいわき市発足前で、当時は石城郡好間村。
- ^ a b 佐久間町大井の本来の通学区は山香小、山香中(両校とも廃校)だったが、父の方針で生徒数の多い佐久間小、佐久間中に越境通学していた。
- ^ 夏の大会記録は、2012年夏に桐光学園・松井裕樹が記録した10者連続奪三振。
- ^ 迫田監督の策に嵌った江川は、この試合で計8四球を与えている。
- ^ 【対柳川商戦での6連続三振内訳】全22球:直球20、カーブ2。 ボール4、ストライク18(直球17)。 そのうち空振り10、ファウル6、見送り1。 カーブ空振り1。
- ^ 延長戦による記録であるため参考記録扱い。公式記録における1位は松井裕樹(桐光学園)の22奪三振。参考記録を含めた1位は板東英二(徳島商)の18回25奪三振。
- ^ 上位十傑の2位以下は、2位:板東英二(徳島商)…12.1(62回・83奪三振)、3位:藤浪晋太郎(大阪桐蔭)…10.7(76回・90奪三振)、4位:尾崎行雄(浪商)…10.3(89回・102奪三振)、5位:島袋洋奨(興南)…10.1(115回2/3・130奪三振)、6位:田中将大(駒大苫小牧)…10.1(91回1/3・102奪三振)、7位:柴田勲(法政二)…9.8(103回2/3・113奪三振)、8位:松坂大輔(横浜)…8.8(99回・97奪三振)、9位:ダルビッシュ有(東北)…8.5(92回・87奪三振)、10位:牛島和彦(浪商)…8.4(100回・93奪三振)である。
- ^ 桐光学園の松井裕樹は、甲子園通算の奪三振率は17.0で江川を上回ったが、甲子園への出場は2012年夏の1回のみで、通算奪三振数は68であり、甲子園通算80奪三振に達していないので、この記述では除外する。
- ^ 最年少ベストナイン投手の記録は33年後の2007年春に当時早大1年生で19歳の誕生日直前だった斎藤佑樹が更新。
- ^ 阪急(またはオリックス)の1位指名を拒否した高校3年生が大学1年生時に明治神宮野球大会の決勝戦で先発投手となった例は江川の他に1999年の九州共立大・新垣渚の例がある。
- ^ 1975年春秋は明大が連覇。法大は上級生と下級生の軋轢があり、殊に秋のリーグ戦は江川の肩の不調もあり、優勝を逃している。
- ^ この年、早大には岡田彰布(北陽高→早大→阪神→オリックス)が入学。秋のリーグ戦で7番レフトで登場した1年生の岡田は江川からいきなり3打数3安打を放っている。だが、その後は江川は岡田に対してシュートを交えて全力で投げ抑えている。
- ^ 通算勝利、奪三振はともに史上2位だが、通算40勝と400奪三振を両方記録しているのは江川のみである[25]。
- ^ なお、昭和52年最終学年組全選手の首位打者は江川で、通算打率は.309。以下、②金光.304 ③袴田.299 ④堀場.282 ⑤山倉.276 ※70ゲーム(210打席)以上。
- ^ 当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。
- ^ ただし、のちにドラフト外という手段で明大・鹿取義隆ら新人選手を10人獲得している。
- ^ 日本プロ野球ドラフト会議史上、ドラフト1位指名を3回も受けたのは江川のみである。
- ^ あくまでも球団側の要請による「自粛」であり、「出場停止」ではない。
- ^ この年の江川は山根和夫(広島)と並ぶ3完封で1位タイ。1980年、81年、82年は単独1位だった。
- ^ シーズン防御率5.28は、この年のセ・リーグ規定投球回到達投手の中では最下位。
- ^ この年の7勝目、通算102勝目を挙げた7月12日の阪神戦では、7回から登板して9回までの3イニングを自責点0のパーフェクトリリーフ。江川にとってはプロ生活唯一のレギュラーシーズンでの救援勝利となった(同試合で江川の女房役・山倉和博が3イニング連続本塁打)。
- ^ 勝利数はリーグ2位、防御率と勝率はリーグ3位。
- ^ この年の小早川はリーグ最多の16勝利打点を挙げている。また、小早川はヤクルトに移籍した初年度の開幕戦(1997年4月4日)で、前年の沢村賞受賞者である巨人の開幕投手・斎藤雅樹から3打席連続本塁打を記録しているが、その試合のテレビ中継の解説者は江川だった。
- ^ 「江川なんと自由契約 何をしようと球団関知せず OBら名選手はみんな任意引退 『強い信頼関係ある』長谷川代表」という記事がある[43]。
- ^ 1987年5月10日、江川は、作新学院時代にバッテリーを組んだ小倉偉民の実姉・睦美の夫だった男性(二人は1983年に離婚)の叔父である亀岡高夫(衆議院議員)と小倉自身が前年秋に養子縁組をした記念にホテルニューオータニで開催された政治資金パーティーにゲスト参加した。本来、そのパーティーは丸1か月前の4月10日に予定されていたが、当日は星野仙一新監督が率いる中日ドラゴンズ(この年、トレードによって落合博満が新加入)との開幕戦の日だったことから、(江川が開幕投手となることを想定して)パーティーの開催日は1か月延期された。しかし、開幕投手には西本が選ばれたため、江川は王監督に不信感を抱いたという。江川は翌11日の開幕第2戦に先発、7回を投げて自責点2に抑え、シーズン初勝利を挙げている[要出典]。
- ^ この話にはオチがあり、引退記者会見後では写真の差し替えが間に合わず、結局江川の写真はそのままカレンダーに使われ、そのカレンダーは当時過去最高の売上を記録したという[49]。
- ^ 公式戦の通算打撃成績は、625打数117安打、打率.187、13本塁打、47打点。
- ^ 当初は純金パターを作らせるつもりだったが、業者から「純金だと重過ぎて振れない」といわれ、純銀になったという。なお実際には純銀でも重過ぎたため、のちに一部をくり抜いてロウを埋める改造を加えたとのこと[76]。
- ^ 1980年…江川(チームはセ・リーグ3位)、1981年…西本(同優勝)、1982年…江川(同2位)、1983年…西本(同優勝)、1984年…江川(同3位)、1985年…西本(同3位)、1986年…江川(同2位)、1987年…西本(同優勝)
- ^ 当時は最多奪三振の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト 年度別成績 には、1980年、1981年、1982年の「最多奪三振」として江川の名前が記載されている。なお、セントラル・リーグでは、1991年より最多奪三振の表彰が開始された。
- ^ 当時は最高勝率の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト 年度別成績 には、1981年、1984年の「最高勝率」として江川の名前が記載されている。なお、タイトルとしての「最優秀勝率投手」および「勝率第1位投手」については、「最高勝率 (野球)」を参照のこと。
- ^ 江川と掛布の対談集。
出典
- ^ 日本テレビ「江川卓プロフィール」
- ^ a b 『プロ野球データブック'84』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1984年)p.421
- ^ 「江川卓氏「山本由伸もいるし」WBCの大谷とダルの起用法 4番候補・鈴木の打順を予想」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2022年12月15日。2022年12月15日閲覧。
- ^ 【新連載】福島に生きる 「かわいそうだから、じゃない!」 ~オールスターゲームがいわき市であるワケ~(馬路雄、ダイヤモンド・オンライン、2013年5月27日)
- ^ されど江川 (1988), pp. 23–24.
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- ^ a b Number 105. (1980年8月20日).
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- ^ 「実はへばっていた初の完全試合/江川卓8 - 野球の国から 高校野球編 - 野球コラム」『日刊スポーツ』2017年12月7日。2021年5月22日閲覧。
- ^ 「栄光を追いかけて:栃木の高校野球1世紀/3 作新学院・江川卓投手 「怪物」速球にどよめき /栃木」『毎日新聞』2017年12月7日。2021年5月22日閲覧。
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- ^ 元巨人篠塚氏を育てた“怪物・江川”の剛速球 高校時代に絶望した「見たことない球」 - ベースボール専門メディア Full-Count
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- ^ されど江川 (1991), pp. 56–58.
- ^ 空白の一日までを掛布が江川卓に直撃!ドラフト1位指名3回に至るまでに何が起こったのか初公開! 2022年2月6日 - YouTube
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- ^ 『巨人-阪神論』p.96、p.135
- ^ 『少年サンデーグラフィック』に掲載の原作者インタビューによる。
- 1 江川卓 (野球)とは
- 2 江川卓 (野球)の概要
- 3 概要
- 4 人物
- 5 西本聖とのライバル関係
- 6 著書
- 7 脚注
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