檜山安東氏城館跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 07:10 UTC 版)
周辺遺跡・文化財
- 浄明寺…永正年間(1504年-1521年)に創建された安東一族ゆかりの寺院。浅利勝頼の首塚がある。山門は檜山城より移された薬医門で1634年(寛永11年)建立であることが判明し、桃山様式を残す建築物として県の有形文化財に指定されている。他に能代市の文化財指定を受けている資料が4件ある。
- 立山(大森館跡)…湊合戦における出城。
- 楞厳院…安東舜季が父尋季供養のため天文年間(1532年-1554年)開基したとされる曹洞宗寺院。
- 母体八幡神社…元亀3年(1572年)に安東愛季が再興したという棟札が残る神社。
- 釣潟神社…愛季奉納の絵馬(能代市指定文化財)が残る神社。
- 母体のモミ林…モミの自生地としては北限にあたる。秋田県指定天然記念物。
- 旧羽州街道一里塚(鴨巣一里塚)…正保4年(1647年)『出羽一国御絵図』には鶴形村のすぐ南に記されている。県内では南から数えて47番目の一里塚。秋田県指定史跡。
- 檜山追分旧羽州街道松並木…檜山から鶴形へ向かう旧羽州街道と脇街道である野代(能代)道の分岐にあたる。現在黒松が13本残るが、最大のものは樹高11メートルで、樹齢約200年と推定される。久保田藩が1681年(天和元年)に街道整備を行った記録があるので、その後植栽されたものと考えられる。秋田県指定史跡。
脚注
参考文献
- 秋田県教育委員会『秋田県の文化財』秋田県教育委員会、1989.3
- 秋田県教育委員会『秋田県の中世城館』秋田県文化財保護協会、1981.3
- 秋元信夫「出羽北部の城館」伊藤清郎・山口博之編『中世出羽の領主と城館』高志書院<奥羽史研究叢書>、2002.2
- 沼館愛三『出羽諸城の研究』伊吉書院、1980.9
- 秋田魁新報社編『古戦場-秋田の合戦史-』、1981.7
- 秋田県埋蔵文化財センター『平成9年度秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会資料』、1998.3
- 秋田県教育庁払田柵跡調査事務所「秋田県重要遺跡調査報告書2 檜山安東氏城館跡(大館跡)調査」『秋田県文化財調査報告書』467、秋田県教育委員会、2011年
関連項目
- ^ a b 「檜山安東氏城館跡・檜山城跡・大館跡・茶臼館跡」文化庁公式HP
- ^ 沼館愛三は『出羽諸城の研究』のなかで、段築を基本とする城は威容が他を圧して弓矢の重層射撃には強いが、接近戦となれば死角を生じやすく、槍や刀が戦いの中心となってからは不利な面があると指摘している。また、山城は包囲されると食糧、水、退路に困るケースも少なくない。それに対し、『古戦場-秋田の合戦史-』(1981年)では、檜山城が湊合戦で150日以上の籠城に耐えたのは、出城を多く持つ、要害の地に立地した堅固な城であったとともに、食糧や万一の際の退路など、弱点を補うさまざまな配慮がなされていたと論じている。
- ^ 大高氏は安東氏の重臣。湊合戦の際には大高筑前が由利十二頭の赤尾津氏に派遣されている。なお、大高光忠という人物が南部氏側の史書『南部史要』に永禄元年(1558年)の安東氏との和睦の際の使者として登場する。
- ^ 秋田県では、後三年の役の際に籠城戦のあった県南内陸部の金沢周辺でも納豆が名物となっている。
- ^ 『北羽新報』2016年6月7日の紙面
- ^ 製鉄炉の送風管のこと。
「檜山安東氏城館跡」の続きの解説一覧
- 1 檜山安東氏城館跡とは
- 2 檜山安東氏城館跡の概要
- 3 概要
- 4 周辺遺跡・文化財
- 5 外部リンク
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