横浜共立学園中学校・高等学校 概要

横浜共立学園中学校・高等学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 02:29 UTC 版)

概要

横浜山手212番地にあったアメリカン・ミッション・ホームとプライン、ピアソン、クロスビー

1861年から横浜に滞在していたジェームズ・H・バラの要請に応えた、米国婦人一致外国伝道協会 (WUMS) のメアリー・P・プラインらにより1871年明治4年)設立。横浜港開港(1859年安政6年))後の当時、西洋人と日本人の間に生まれた混血児を救うため、また、富国強兵を支えキリスト教教育を認めない当時の国[4]女子教育の必要性を痛感し、バラの持ち家であった山手の48番館を借り、8月28日「アメリカン・ミッション・ホーム」が正式に開設。しかし、キリシタン禁制の高札が撤去される2年前であり、当初は混血児も女子学生も来ず、母親を亡くしたイギリス人の二人の幼い姉妹の養育から始まったという。

その後中村正直(当時・静岡学問所教授)により日本初の「生徒募集・入学案内」がしたためられ、混血児や女子学生だけでなく、英語やキリスト教に関心のもつ者も多く現れ、彼らはのちに教育、伝道、実業など多様な分野で重要な働きをしたという。

1872年(明治5年)10月、山手212番のロシア公使のために用意されていた、広い土地に移転、日本で最初の女子寄宿学校が作られた。同年12月に「日本婦女英学校」と改組したが、相変わらず「ミッション・ホーム」と呼ばれたり、WUMS の初代会長の名に因んで「ドリーマス・スクール」などと呼ばれた。1875年(明治8年)、プラインは健康を害しアメリカに帰国したが、この頃 Union を「共立」と表現して、「共立女学校」と改称し、現在に至る。

関東大震災1923年大正12年))では、共立女子神学校(1881年(明治14年)偕成伝道女学校として設立)の校舎を残して、校舎の全てが倒壊、または焼失したと記録されている。学園創立60周年の1931年昭和6年)、W・ヴォーリズの設計により木造の校舎が竣工した。これは現在本校舎として使用されており、1988年横浜市指定有形文化財第一号の指定を受けている。

1999年平成11年)、私立で初の制度(学校教育法)上の「中高一貫教育校(併設型)」となる。これにより学習指導要領を弾力的に取り扱うことが法的に認められている[5]








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