横井小楠 嗜好

横井小楠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 05:36 UTC 版)

嗜好

「翁の閑事業は漁猟、殊に漁であった。鉄砲猟に出かける時は、大抵粟の飯の弁当に味噌漬けで、鉄砲肩げてのこのこ歩かれた。漁は釣網みな得意であったが、中にも蚊頭ひきは名人で、これは大抵雪降りの日である」[6]

「酒量は弱いが、酒は好きな方であった。江戸で酒の上に大気焔を吐き、その為帰国を命ぜられた後は、暫く禁酒せられたが、併しおりおり神棚の神酒が不思議になくなることもあった。先生の姉君が先生が禁酒さるるを気の毒に思って、毎朝そしらぬ風して神棚の神酒徳利に酒をなみなみとついで棚にあげて置かるると、明日は必ず空になって居たと云う」[7]

評価

  • 勝海舟
    • 「はじめて会った時から、途方もない聡明な人だと心中大いに敬服して、しばしば人を以ってその説を聞かしたが、その答えには常に『今日はこう思うけれども、明日になったら違うかもしれない』と申し添えてあった。そこでおれはいよいよ彼の人物に感心したよ」[8]
    • 「大抵の人は小楠を取り留めの無い事をいう人だと思った。維新の初めに大久保(利通)すら、小楠を招いたけれど思いの外だといっていた。しかし、小楠はとても尋常の物尺では分らない人物で、且つ一向物に擬態せぬ人だった。それ故に一個の定見と云うものはなかったけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった。こうして何にでも失敗した者が来て、善後策を尋ねると、其の失敗を利用して、之を都合のよい方に遷らせるのが常であった。おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから色々教えてやったら、一を聞いて十を知るという風で、たちまち彼の国の事情に精通してしまった。小楠は能弁で、南州は訥弁だった。小楠が春嶽公に用いられた時、もちっと手腕を振るうことは出来なかったかという人もあるが、あの時は実際出来なかったのだ。また維新の時に、西郷はなぜ小楠に説き勧めなかったかという人もあるが、これは必要なかったからだ。小楠は毎日の如く芸者や幇間を相手に遊興していた。人に面会するのにも一日に一人二人会うと、もはや疲労したといって断るなど、平生、我儘一辺に暮らしていた。だから春嶽公に用いられても、また内閣へ出ても、一々政治を議するなどはうるさかっただろう。こういう風だから小楠の善い弟子といったら安場保和一人位のものだろう。つまり小楠は覚られ難い人物であった」[9]
    • 「横井という人は、一見何の異なる所なく、服装なども黒縮緬の袷羽織に平で、見たところは大名の御留守役とでもいう風で、人物の円満で、強いて人と争う様な野暮ではなかった。佐久間(象山)などとはまるで反対であった」[10]
  • 徳富一敬
    • 「身の丈は五尺に足らぬ小男であったが、顔大きく、色黒く、真黒い一の字眉きりりと釣り上がり、眼中きらきら光り、頬骨高く秀でて、口の大きい、活々した風采の人で、眼明手快、非常にすばしこい人であった」[4]
    • 「先生は余程陽気な質で、先生の話声は始終門外に聞こえ、先生が来らるると一座急に賑やかになった。随分癇癪は激しい方であった。併し赫として怒らるると火の出る様であったが、過ぎるとあとは誠にサッぱりして、夕立あがりの様に涼しく叱られても一向苦にならぬ。どんなに敵対する者でも。折れて来ればさっぱりとして腹蔵なく、如何に厳責した者でも改むると先生の喜びは限りなく、行雲流水まことにさらさらとした大快活の人であった。門人を教養するにも、規則がましい事一切なく、おのおのその人々によりて開発の道を授け、楽しんで進む様にせられる。そこで先生の薫陶を受くる者は、欣々然として化すると云う風で、師弟の分ははっきりして居ても至って心易く、碁なんどうっては、互いに相手の手を握って先後を争うと云う風であった」[7]
    • 「先生は真に思想の人であった。厠の中でも、漁に出ても、ふと考えの浮かぶと、必ず十分考えつくすまでは置かぬ。修行心は非常なものであった。門弟が来る、講習する。百姓が来る、作の事を聞く。漁師が来る、商人が来る、媼が来る、それぞれ相手になって話したり聞かせたりせられる。と云う塩梅で、門弟なども故郷から出て先生に逢いに行くときは、色々心しらべして、先生のその地方に関する問いに答うる準備をして行く、と云う位であった。先生は何処に行っても、空しく暮らさぬ。女などと話すには、股引のたち襟足袋のかた、家事の心得何くれと利益になることを注意される。百姓商人に対しても、一々細かに話される。併し時々は鶴の声を雀の仲間に聞かすこともあって、『なァに、天下を取るのは易い事だ』と文盲老爺を捉えて述誡されたこともあった。『人間は白骨にならねば、事は出来ない』と常に云って居られた通り、名利の間は早に越えてしまって光風霽月その胸襟であったのである」[7]
    • 「その風采容貌を申しますと、丈けは十人並より少し低い方で、顔は少し長面で、眉がきりきりと釣り上り、眼光鋭く、英気五の短身に溢るるばかりでありました。右の通り活発でありましたので、少壮の時分は、少しは荒い事もありましたそうです。その資質は聡敏正直、思慮周密、また忠孝節義の事実話を聞きましては、落涙に堪えざるていの人でありました。弁舌なども非常に爽快なもので、故木戸孝允氏なども評して、横井の舌剣と申した位で、誰でも横井に対すると、話が了然と腹に落ちました。また智術策略ていのことは至って嫌いで、それにまた抱負も中々大きな男でありましたが、一方にはまた中々精細に情愛の濃やかな人で、その老婆の病気の時などは、自身両便の世話から、手足の撫でさすりまでするというような塩梅で、兄時明の看病、兄の子供に対する情愛は、傍らから涙の出つる程でありました。書生の教育なども、決して規則ではならぬならぬと言って、常に人々の性質につれて、自然にこれを誘導する様に致し、ただ利害の考えや、へつらいなどは激しく督責しました」[11]

家系

  • 横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまりとされている。時利の子は横井時永といい、その子孫は時勝、時延時泰、時安---と続いた。北条氏の子孫として代々祖先の通字であった「時」の字を名乗りに用いる(写真でも、肩衣に北条氏の家紋である三つ鱗を付けているのがわかる)。
  • 小楠の妻は2人おり、先妻は熊本藩士小川吉十郎の娘・ひさ(嘉永6年(1853年)2月結婚、安政3年(1856年)死別)、後妻は小楠の門弟矢嶋源助の妹の津世子(安政3年(1856年)結婚)。津世子との間には、後に同志社第3代総長や衆議院議員を務める長男の横井時雄海老名弾正の妻となる長女のみやが生まれた[1]
  • 津世子の姉には徳富一敬に嫁いだ徳富久子竹崎順子がおり、妹には矢嶋楫子がいる。惣庄屋矢島忠左衛門直明を父とするこの姉妹は「四賢婦人」と呼ばれ、生地の熊本県益城町に記念館がある[12]
  • 徳富蘇峰は父一敬の影響で自らを小楠の門弟と称し、小楠を生涯の師と仰いでいる。
  • 横井太平は小楠の甥で、小楠の兄・時明の次男。兄・横井左平太と共に小楠らの資金を得て米国に密航。病を得て帰国後は熊本に熊本洋学校を作ろうと努力した。
  • 横井左平太の妻が、女子美術学校を創立した横井玉子である。

注釈

  1. ^ のちの龍馬の船中八策の原案の一つとなったとも言われる。
  2. ^ 仏教学者佐々木憲徳が『天道覚明論』は偽作ではないと論じている。また、横井小楠は安政4年(1857年)に、血統に従って君主の位につくことに対する全面的かつ徹底的な拒否の内容の詩を作っている[要出典]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 横井小楠 -その業績と生涯-(熊本市)
  2. ^ Kotobank
  3. ^ 横井小楠伝 山崎正董
  4. ^ a b 『青山白雲』P50
  5. ^ 『青山白雲』P60
  6. ^ 『青山白雲』p51
  7. ^ a b c 『青山白雲』P54
  8. ^ 『海舟全集 第十巻 古今人物談』
  9. ^ 『勝海舟 P68』
  10. ^ 『勝海舟言行録』
  11. ^ 『逸話文庫 通俗教育 志士の巻』
  12. ^ 四賢婦人記念館






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「横井小楠」の関連用語

横井小楠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



横井小楠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの横井小楠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS