東富士欽壹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 07:09 UTC 版)
エピソード
- 東富士が入門した富士ヶ根部屋では、伝統的に四股名に「富士・冨士」が付くが、通常は上に付いて「冨士東」になる予定だった。しかし、富士ヶ根の期待の大きさを表すものとして逆の四股名になっている。現在でもこの伝統は、当時の富士ヶ根部屋を吸収した高砂部屋に継承されている[注 5]。2021年現在でも富士東和佳(足立区出身)が現役力士として在籍するが、これは玉ノ井部屋の「東」を継承した四股名で、東富士との関係は一切無い。
- 男女ノ川登三の付き人をしていた頃、男女ノ川の大好物だったジャガイモをこっそり食べた。しかし、ジャガイモの減りに敏感だった男女ノ川はすぐに見抜いて「こらキン坊、一つ食っただろ!」と怒られたという。
- 1947年6月場所に行われた優勝決定戦に初めて出場したが、同じ決定戦に出場した前田山英五郎とは複雑な上下関係があり、対戦相手を決める抽選では何とか当たらない様に祈ったものの一回戦で対峙し、敗退している。
- 横綱昇進を決めた頃、灰田勝彦(歌手)・別所毅彦(プロ野球選手)と3人で義兄弟の契りを結ぶ交友もあったという。
- 最初の東京出身横綱で「江戸っ子横綱」と呼ばれた[1]。東富士の横綱土俵入りは巨体だけに迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」とも言われたという。気風の良い人柄で知られ、それにまつわるエピソードは数多い。
- 角界において、「良い生活を送りたかったら稽古しなさい」という意味でお馴染みの叱咤激励の言葉である「土俵に宝(銭)が埋まっている」というたとえ話を聞いた際、実際に夜中に鍬で土俵を掘り起こし、真ん中に土の山を作って兄弟子たちを驚愕させたという[5]。
- 角界経験者がプロレスへ転向するケースは力道山を筆頭に数多く存在するが、東富士は初めて横綱経験者としてプロレスへ転向した人物である。横綱のプロレス転向は後に輪島大士、双羽黒光司、曙太郎の3人が続いている。
注釈
- ^ 当時は東西制で、15日制なら平幕10枚目前後までが横綱との対戦圏内だった。
- ^ 同場所の番付では西方に大関不在(照國が横綱大関だった)。
- ^ 羽黒山の他新入幕の千代ノ山が10戦全勝の優勝同点(優勝決定戦制度なし)で、東富士は照國と並んで3位の成績。
- ^ この前場所で栃錦は優勝したが、場所後の横綱審議委員会では「番付上の理由」で栃錦の横綱昇進を否決していた。
- ^ 例として富士錦猛光、富士櫻栄守がいる。なお、両者は富士山がある山梨県出身である。
- ^ 腰痛により11日目から途中休場
- ^ 優勝同点
- ^ 羽黒山、前田山、力道山と優勝決定戦
- ^ 増位山と優勝決定戦
- ^ 左足首関節挫傷により3日目から途中休場、7日目から再出場
- ^ 急性肺臓炎・扁桃腺周囲炎により8日目から途中休場、13日目から再出場
- ^ 左足首関節捻挫により9日目から途中休場、11日目から再出場
- ^ 左手中指薬指関節脱臼により7日目から途中休場
- ^ 右股関節捻挫により5日目から途中休場、11日目から再出場
- ^ 右肩関節打撲傷・腰椎捻挫・左第二肋骨軟骨亀裂骨折により8日目から途中休場
- ^ 左肘関節捻挫・右腰部神経挫傷により8日目から途中休場
出典
固有名詞の分類
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