本願寺の歴史 本願寺の歴史の概要

本願寺の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 15:00 UTC 版)

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親鸞の入滅

弘長2年(1262年[注釈 1]11月28日グレゴリオ暦換算 1263年1月16日[注釈 2])、親鸞は京都の押小路南、万里小路東(おしこうじみなみ、までのこうじひがし。現在の京都市中京区柳馬場通押小路下ル)の「善法院」において入滅する。享年90(満89歳)。

後に、覚如によって「宗祖」(「開祖」)に定められる。

翌29日午後8時に葬送。下野国高田の顕智遠江国池田の専信なども上洛し参列。東山鳥辺野(とりべの)の南、「延仁寺」で荼毘にふす。

翌30日拾骨。鳥辺野の北「大谷」に墓所を築き納骨する。

廟堂建立

「大谷廟堂」の詳細については、「大谷廟堂」を参照。

文永9年(1272年)、親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、親鸞の墓所を「大谷」の地より「吉水の北の辺[注釈 3]」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。

建治3年(1277年)、大谷廟堂の管理・護持する「留守職」(るすしき)は覚信尼が当たる。

弘安3年 (1280年)、覚信尼とその子覚恵(親鸞の孫)の依頼により、如信(親鸞の孫)が大谷廟堂の法灯を継ぐ。

しかし寺務は覚信尼・覚恵に委任し、陸奥国にある大網の草庵[注釈 4]に戻り布教活動を続ける[1](『大谷本願寺通紀』)。

如信は、親鸞の祥月忌のため毎年上洛し、その際に覚如(親鸞の曾孫)に対して宗義を教える。後に、覚如によって如信は「本願寺第二世」に定められる。

弘安6年(1283年)、覚信尼の入滅にともない、覚恵が大谷廟堂の「留守職」を継承する。

永仁3年(1295年)、親鸞の「御影像」を安置・影堂化し「大谷影堂」となる。

正安4年(1302年)、覚恵と唯善(親鸞の孫で覚恵とは異父弟)の間に起こった大谷廟堂の留守職就任問題(唯善事件)が勃発する。

延慶2年(1309年)7月、青蓮院[注釈 5]により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下される。敗れた唯善は「大谷廟堂」を徹底的に破壊して鎌倉へ逃亡する。

延慶3年(1310年)、覚如が東国(関東)の門徒の了承を得て、大谷廟堂の「留守職」を継承する。(~1314年1322年1338年1342年1350年〈委譲・復職を繰返す。〉) このことから、大谷廟堂が寺院化した後も、本願寺法主は血縁によって継承されるようになる。

延慶4年/応長元年(1311年)、覚如は親鸞の五十回忌に当たり「御影像」と影堂を再建する。

応長2年(1312年)、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようと「専修寺」と額を掲げるが、延暦寺の反対により撤去する。『存覚一期記』によると、高田門徒真仏上人の門弟である法智がこの「専修寺」の額を下野国にある高田の如来堂に持ち帰ったという。後に如来堂は専修寺に名称を改めている。

正和3年(1314年)、存覚が留守職を継承する。(~1322年1338年1342年)その後、覚如により、解任・復職を繰返す(義絶事件)。

本願寺成立

元亨元年(1321年)、覚如が再度寺院化を試み、「本願寺」と号し成立する。これより後、本願寺教団は移転時に「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになる。(便宜上、「大谷本願寺」と呼称される場合もある。)「本願寺」の寺号は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされる。寺院化にともなって、覚如はそれまで影堂(廟堂)に掛けられていた帰命尽十方無碍光如来の十字名号を本尊とするのではなく、新たに木造の阿弥陀如来立像を本尊にしようとしたが、高田門徒の反対にあい、十字名号が本尊とされた。

覚如は、親鸞の門弟・門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図する。

元弘元年(1331年)、覚如は『口伝鈔』を著し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する(法脈…法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統…親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。

自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。

しかし現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。

正和以後も元徳2年(1330年)・観応3年(1352年)・嘉慶2年(1388年)にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった青蓮院の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。

ただし、こうした通説に対して、太田壮一郎は親鸞が青蓮院で九条家出身の青蓮院門跡慈円の下で出家した縁で当初は一条家(九条家の支流)および青蓮院とつながりが深い妙香院門跡の候人となったこと、妙香院が15世紀(本願寺では蓮如の継承前後)に衰退して青蓮院に吸収されたために青蓮院の傘下に移ったこと、候人は門跡に近侍・奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、妙香院や青蓮院が本願寺の教義に干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺を擁護し続けた事実を指摘して、本願寺が青蓮院の末寺であったとまでは言えず、反対に妙香院・青蓮院による庇護があったとしている[2]

観応元年(1350年)、存覚は覚如と和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の善如に委譲する。


注釈

  1. ^ 弘長2年11月28日…西暦(ユリウス暦・グレゴリオ暦換算ともに)「1263年」になるが、弘長2年はまだ年を越していないので「1262年」と考える。 よって、文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて「1262年」と表記する場合と、新暦に基づいて「1263年」と表記する場合があるので注意が必要である。
  2. ^ 本願寺派高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、命日を1月16日に改めた。
  3. ^ 吉水の北の辺…現在の東山区林下町 知恩院塔頭の「崇泰院」付近
  4. ^ 大網の草庵…大網の草庵は、後に寺格化され「願入寺」となる。
  5. ^ 大田壮一郎論文(2005年、P19-23)によれば、妙香院が正しいとされる。
  6. ^ 蓮如…大谷派では、「」の字は」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「」と表記するのが正式である
  7. ^ 長島一向一揆において、信長は和睦成立後に、反故し一揆勢を虐殺した前例があるため。
  8. ^ 信長の目を逸らすための顕如の策略との説もある。
  9. ^ a b 教如の事。
  10. ^ a b c 顕如の事。
  11. ^ a b 准如の事。
  12. ^ 東本願寺は、昭和62年に「宗教法人 本願寺」を解散し、「宗教法人 真宗大谷派」に合併される。東本願寺の伽藍を「真宗本廟」と改称する。

出典

  1. ^ 参考文献…河野法雲・雲山龍珠 監修『真宗辞典』法藏館、新装版、P.605「如信」
  2. ^ 大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 p11-40
  3. ^ 太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3
  4. ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年 、第三章第三節「関東公方と一向一揆」
  5. ^ 上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部


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