意宇郡
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意宇六社
意宇郡にある神社のうち下記の六社を「意宇六社」といい、「六社さん」とも呼ばれて崇敬されている。この六社を巡拝する「六社参り」という行事が江戸時代以前より行われている。
行政
- 島根・秋鹿・意宇郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治12年(1879年)1月12日 | |||
明治29年(1896年)3月31日 | 島根郡・秋鹿郡との合併により意宇郡廃止 |
脚注
参考文献
- 沖森卓也、佐藤信、矢嶋泉 編著『出雲国風土記』 2005年 山川出版社 ISBN 978-4-634-59390-9
- 関和彦『『出雲国風土記』註論』 2006年 明石書店 ISBN 4-7503-2376-4
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 32 島根県、角川書店、1979年7月1日。ISBN 4040013204。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 島根県内市町村その他情報
関連項目
先代 ----- |
行政区の変遷 698年以前 - 1896年 |
次代 八束郡 |
注釈
- ^ 『続日本紀』文武天皇二年三月己巳条。また、意宇郡と同時に筑前国宗像郡も連任を許された。続いて上総国安房郡が文武天皇4年(700年)(『続日本紀』文武天皇四年二月乙酉条)に連任を許され、さらに養老7年(723年)までに八神郡全て連任を許された。
- ^ 藤原京出土木簡に「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)とあり、7世紀末には「郡」ではなく「評」と呼ばれていたことが判明している[1]。
- ^ 比定地名は2009年現在のもの。郷域の比定は関(2006)を参考にした。
- ^ a b c 瀧音能之『古代出雲を知る事典』東京堂出版 2010年 19ページから
- ^ 昭和23年(1948年)に能義郡荒島村に編入
- ^ 「旧高旧領取調帳」は出雲国分が欠けているため、木村礎の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書16 旧高旧領取調帳 中国四国編」(近藤出版社、1978年)に掲載されたデータが国立歴史民俗博物館によりデータベース化されている。
- ^ 松江城下各町の総称。無高のため「旧高旧領取調帳データベース」には記載なし。本項では便宜的に1町に数える。
- ^ a b 熊野村1村として記載。
- ^ 上来海村・大森村に分かれて記載されているとみられる。
- ^ a b 下来海村1村として記載されているとみられる。
- ^ a b 意東村1村として記載。
- ^ a b c d e f g h 大根島1村として記載。
- ^ 記載は松江町。
- ^ a b 津田村1村として記載。
- ^ a b 「旧高旧領取調帳データベース」には記載なし。
- ^ a b 松江市となった区域を除く[2]
- ^ 字三月上及び字伊勢宮・字宮ノ沖の各一部[2]
- ^ 字田中上・ 字王子阪・ 字馬ノ背・字稲荷上[2]
- ^ 湯町村のうち町分。本項では町数に数えない。
- ^ 宍道村のうち町分。本項では町数に数えない。
- ^ この時点では本郡内に松江本町、松江八軒屋町、松江和田見町、松江寺町、松江天神町、松江魚町、松江灘町、松江竪町、松江雑賀町、松江新町、松江横浜町が存在。
- ^ 字北土手・字松江廻・字新丁・字清水・字三月下・字三月西・字田中・字稲荷廻・字宇賀・字元山・字伊勢宮・字宮ノ沖の各一部[2]
- ^ 字フケ・松江境の各一部[2]
- ^ 字元山・薩摩縄手・袖師浦および狐尾・北原の各一部[2]
出典
固有名詞の分類
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