意奚(仁賢天皇)と袁奚(顕宗天皇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:03 UTC 版)
「播磨国風土記」の記事における「意奚(仁賢天皇)と袁奚(顕宗天皇)」の解説
意奚と袁奚の父である市辺天皇(市辺押磐皇子)が近江国の摧綿野で殺された。このとき、2人は日下部連意美を連れて美嚢郡志深里にある岩室に隠れた。後に日下部連意美は罪の重さから、馬を放し、荷物を焼き払って自殺してしまった。意奚と袁奚はあちこち転々としたが、志染村首伊等尾の家で仕えることになった。伊等尾の催した宴の場で弟の袁奚が歌を歌い、歌詞でその正体を明かした。このことが播磨国山門領・山部連少楯に知らされた。少楯は2人と会い母である手白髪命が心配していることを伝えた。都に上った少楯がこれを報告し、2人の皇子が迎え入れられた。意奚と袁奚は再びこの地を訪れたおり、宮と屯倉を造営した。
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