張学良 評価

張学良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 08:20 UTC 版)

評価

中華民国

中華民国内では、張学良は満洲事変後も庇護した国民党に対して国共合作を認めさせるために蔣介石を脅迫して反共戦を頓挫させるとともに、国民党が取った対日戦略(「安内攘外」)を破綻させ、十分な対抗力がないまま日本軍と正面衝突したために計り知れない犠牲を強いられたと西安事件をみなす見解も強い[16]。父張作霖の七光りで将軍になったものの美女狩りや麻薬吸引に余念のない放蕩息子にすぎないとの評価もある[16]。張学良の東北軍は、ソ連軍に敗北、五個師団が壊滅、陝北での剿共戦では直羅鎮・楡林の戦闘で紅軍に敗北、二個師団が壊滅しており、張が多くの戦闘で負け続けたことも指摘されており、そのため、1936年の西安事件だけが歴史的に張が脚光をあびた唯一の瞬間であったともとらえる向きもある[16]

当時、蔣介石は日中全面戦争を回避するために日本の要求を受け入れており、西安事件までは妥協的だった。国民政府は日本側からの要求である梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定を締結、さらに「治安維持緊急治罪法」を発布して抗日運動を厳しく抑圧し全国各界連合会の七人を「民国に危害を加えた」との罪名で逮捕した[21]。また胡適も中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとはかぎらない」かゆえに“停戦謀和”すべしと唱え、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」と主張していた[22]。また、蔣は満洲国周辺に「冀察政務委員会」と言う国民党政権で有りながらも日本人顧問が採用されている緩衝地帯を作り日本と妥協し、盧溝橋事件の際に宋哲元張自忠秦徳純は人脈を生かして現地解決を努めていた。

盧溝橋事件の際に現地軍が妥協し、日本政府も中国に停戦協定に中国軍幹部の陳謝と更迭を要求し、支那駐屯軍橋本群は7月20日には内地軍派兵に反対意見を起草し「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり」と打電するなど、日本は中国に対し一貫して武力行使を行おうとしていなかった。また当時、の三ヶ国は日本軍の中国侵略に対しては傍観しており、中国は孤立していた[16]。シカゴ大学歴史学博士許倬念も「中国の抗日開始は早すぎた。もしもう五年遅ければ状況はまったくことなっていたはずだ」と述べている。

このような見方からすると張学良は罪人であり、中国共産党を生き延びさせたきっかけをつくり、のちに国民党が中国大陸から追放された原因をつくった人ともみなされている[16]胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。ただし、後に制定された双十協定には「中国共産党は、蔣介石主席と南京国民政府が中国の合法的な指導者の地位にあることを承認する」という内容が含まれており、共産党側は8つの解放区(共産党が支配する地区)の解消・軍隊の削減など大きく譲歩し[注釈 1]、さらに蔣介石自身も最大の援助国アメリカの内戦回避の意向を無視して内戦を起こしたことで、アメリカは中国の経済援助政策を打ち切って中国から撤退したため、必ずしも張学良だけの責任ではない[23]

中華人民共和国

張学良像

中華人民共和国内では、張学良は「第二次国共合作」の立役者であり、抗日統一戦線結成のきっかけを作った事から、非常に高く評価されており、「千古の功臣」「民族の英雄」と呼ばれ、張学良氏を主人公とする映画が作られたりもしている[24]

共産党からすれば、西安事変によって国共両勢力が統一し、日本軍と戦ったが、むしろ蔣介石に追い詰められていた窮境から脱出できたことが大きく[16]、張学良は逆境にあった中国共産党の救い主という面も指摘されている[16]

2001年の張学良の死去の際に中国共産党江沢民総書記は、遺族への弔電で張学良を「偉大な愛国者」「中華民族の永遠の功臣」であるとし、「65年前の民族滅亡の危機に際して、楊虎城将軍と共に愛国精神、抗日と民族滅亡阻止の大義を掲げ、西安事変を発動し旧日本軍に対して中国共産党との共同抗戦を訴えた。更に10年にわたる内戦を終結させ、第2次国共合作を促し、全民族の抗戦に歴史的貢献をした」と記した[16]


注釈

  1. ^ 2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国政府主席(蔣介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、更にその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。

出典

  1. ^ 郭 1993, p. 32.
  2. ^ 満州国見聞記 p88
  3. ^ a b c d e NHK取材班、臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』
  4. ^ 张氏帅府” (中国語). 辽宁省文化厅. 2018年2月13日閲覧。
  5. ^ a b c d 郭 1993, p. 53.
  6. ^ 郭 1993, p. 62.
  7. ^ a b 郭 1993, p. 55.
  8. ^ 郭 1993, p. 133.
  9. ^ 『パリわずらい江戸わずらい』小学館 2014年pp.235-240
  10. ^ Kristof, Nicholas D. (19 October 2001). "Zhang Xueliang, 100, Dies; Warlord and Hero of China". The New York Times. ISSN 0362-4331.
  11. ^ NHK取材班、臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』 pp.142-144
  12. ^ 郭 1993, p. 124.
  13. ^ “西安事变的幕后英雄:中共秘密特别党员高福源”. 人民网. (2013年1月22日). http://book.people.com.cn/n/2013/0122/c69360-20286632.html 2018年2月26日閲覧。 
  14. ^ 郭 1993, p. 275.
  15. ^ 郭 1993, p. 308.
  16. ^ a b c d e f g h i j k [1]「西安事変 張学良の功罪」サーチナ2001年11月29日
  17. ^ 郭 1993, p. 318.
  18. ^ a b c 郭 1993, pp. 319–320.
  19. ^ a b c d 【李登輝秘録】第6部 薄氷踏む新任総統(11)張学良と交友 軟禁解除の道探る”. 産経ニュース (2019年11月4日). 2021年1月10日閲覧。(要購読契約)
  20. ^ 保坂正康『日本陸軍の研究』P・101~102 朝日文庫 朝日新聞社 2006年
  21. ^ 小島晋治・丸山松幸「中国近現代史」
  22. ^ 胡適「華北保存的重要」。曹長青評論邦訳集 張学良論2.なぜ蔣介石は抗日に同意しなかったのか
  23. ^ ビルマ戦線の司令官衛立煌は国共内戦に反対し、共産党との問題は政治交渉により解決すべきと主張していた。傅作義は国共内戦に内心反対であった。商震も李済深も国共内戦に反対していた。
  24. ^ レコードチャイナ:張学良旧居を訪れ学ぶ大学院生―遼寧省瀋陽市
  25. ^ 郭 1993, p. 151.
  26. ^ 郭 1993, p. 56.
  27. ^ 郭 1993, p. 54.
  28. ^ 郭 1993, p. 116.
  29. ^ 郭 1993, p. 132.
  30. ^ 郭 1993, p. 145.
  31. ^ 郭 1993, p. 252.
  32. ^ 郭 1993, p. 253.
  33. ^ 郭 1993, p. 272.
  34. ^ 郭 1993, p. 283.


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