大陸軍 (フランス) 皇帝近衛隊

大陸軍 (フランス)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/18 13:06 UTC 版)

皇帝近衛隊

フランスの皇帝近衛隊 (Garde Impériale) は当時の精鋭部隊であり、執政親衛隊 (Garde des Consuls, Garde Consulaire) から発展した。これはそれ自体が軍団(Corps d'Armée)であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは近衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。歩兵が戦闘に参加することは希であったが、近衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。

近衛隊の規模の変遷
兵士数
1800 3,000
1804 8,000
1805 12,000
1810 56,000
1812 112,000
1813 85,000(ほとんどが新規近衛隊)
1815 28,000
古参・中堅・新規近衛隊
1804年のナポレオン皇帝即位から発足した近衛隊は、1809年の新規近衛隊の創設に伴ない、古参近衛隊と呼ばれるようになった[2]。1810年には中堅近衛隊が新設された[3]。それぞれの経験と能力の評価に従って、近衛歩兵は連隊別に、近衛騎兵は大隊別に分かれて、古参・中堅・新規近衛隊のいずれかに所属した。
  • 古参近衛隊(Vieille Garde)- 近衛擲弾兵、近衛猟歩兵、近衛精鋭憲兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛猟騎兵の古参大隊、皇后竜騎兵、近衛軽槍騎兵の古参大隊、近衛徒歩砲兵の古参、近衛騎馬砲兵
  • 中堅近衛隊(Moyenne Garde)- 近衛小銃猟歩兵、近衛小銃擲弾兵
  • 新規近衛隊(Jeune Garde)- 近衛狙撃歩兵、近衛選抜歩兵、近衛海兵、近衛猟騎兵の新参大隊、近衛軽槍騎兵の新参大隊、近衛徒歩砲兵の新参

近衛歩兵

近衛擲弾兵(Grenadiers-à-Pied de la Garde Impériale[4][5]
皇帝近衛擲弾歩兵連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年のポーランド方面作戦では、ナポレオン自身によって「不平屋」(les grognards)という渾名を付けられた。
構成員は近衛兵の中でも最も経験を積んだ勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、読み書きができ、勇猛さで表彰され、しかも身長が178 cm以上である必要があった。
皇帝近衛擲弾歩兵連隊は中堅近衛兵や新規近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝近衛擲弾歩兵は4個連隊に拡張された。新しい連隊すなわち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝近衛擲弾歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中堅近衛隊と呼ばれた。
ワーテルローでイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロイセン軍と戦った。皇帝近衛擲弾歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着て、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。
近衛猟歩兵(Chasseurs-à-Pied de la Garde Impériale
皇帝近衛猟歩兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。
猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4個連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中堅近衛兵連隊と共に、ワーテルロー会戦の最終段階で近衛隊突撃に加わった。皇帝近衛擲弾歩兵第1連隊と同様に猟歩兵第1連隊もプランスノアの戦いに参加した。
猟歩兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑が縁の赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも近衛歩兵と同様に、猟歩兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。[6]
近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde Impériale)
フュジリエ(火打石銃兵)猟兵は1806年に中堅近衛歩兵の連隊として創設された。中堅近衛隊のすべての兵士は2ないし3回方面作戦に参加した古参兵であり、戦列連隊の下士官に任命された。全近衛隊の中でも問題なく優秀な歩兵であるフュジリエ猟兵連隊猟兵は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ擲弾兵連隊(下記)と共に近衛フュジリエ旅団の一部として戦闘に参加した。
フュジリエ猟兵連隊は広範な作戦行動に参加し、繰り返しその存在価値を示し続けたが、ナポレオンの退位に続く1814年に解散し、1815年のワーテルロー方面作戦に向けて再編制されることはなかった。
制服は赤の折り返しのある濃青のハビット(上着)を着用し、赤い縁で緑の肩章と白の襟章を着けていた。上着の下は白のチョッキと青か茶色のズボンだった。帽子は円筒帽で、白の紐が着き、緑に重ねた赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃銃剣および短いサーベルだった。
近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde Impériale)[7]
フュジリエ擲弾兵連隊は1807年に結成された中堅近衛歩兵連隊である。フュジリエ猟歩兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。
フュジリエ擲弾兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ猟兵連隊と共に近衛フュジリエ兵旅団の一部として戦闘に参加した。フュジリエ猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再編制されなかった。
服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は円筒帽で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。
近衛海兵(Marins de la Garde de la Garde Impériale)
近衛海兵隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、イギリス海峡を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、近衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートやバージあるいはその他の船の操船にあたった。
制服は金のレース飾りのついたネイビーブルーのユサール風ドルマンジャケットと、やはり金のレース飾りのついたネイビーブルーのハンガリー風ズボンだった。帽子は Gold Guard と刺しゅうされた円筒帽だった。[8]武器は歩兵と同様で、シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような拳銃も持っていた。
近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde Impériale)
1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を新規近衛隊の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中堅近衛隊から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。
制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。
近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde Impériale)
新規近衛隊の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃擲弾兵連隊と同様だが、士官は古参近衛隊から、下士官は中堅近衛兵から編制替えされた。
制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。さらに赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。

近衛騎兵

近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs-à-Cheval)と騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-à-Cheval)の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(Gendarmes)大隊およびマムルークMamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(Régiment de Dragons de la Garde Impériale、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊(2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。1812年には第三の軽槍騎兵連隊が創設され、また、偵察兵連隊は1813年の末に創設された。

近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。

近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale
「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの近衛騎兵連隊の中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。
すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。
この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア軍近衛騎兵を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘はアイラウの戦いの時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて兵達は退避場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシア軍の戦列になだれ込んだ。皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない近衛騎兵連隊であった。
制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。
重騎兵用のサーベルと騎銃、拳銃で武装しており、皇帝近衛軍の全部隊と同様に、彼らも戦闘時には予備隊として控え、勝利を確実にするここぞという時にだけ戦場に出ており、擲弾騎兵の最も有名な2つの攻撃がアウステルリッツの戦いでロシア胸甲騎兵連隊を敗走に追い込んだ事とアイラウの戦いで再び、ロシア軍と交戦した事である。
近衛猟騎兵
近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale
「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽近衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊のひとつと言える。
フランス革命の1796年、ナポレオンはイタリア遠征に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽騎兵に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵の創設を命じた。[9]この時の200名の護衛が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。
部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した。半島方面作戦では、1808年のベナヴェンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。
騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。
近衛マムルークEscadron de Mamalukes
砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトはエジプト遠征で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊。元々は皇帝近衛猟騎兵連隊所属の中隊(あるいは半大隊)であった。
ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官はフランス人であり、下士官はエジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人、グルジア人、シリア人、キプロス人なども含まれていた。
1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には古参近衛隊の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され新規近衛隊に所属した。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。
制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った三日月刀に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。
近衛精鋭憲兵(Gendarmerie d’Elite
滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目を果たした。ジャンダルムは大陸軍の憲兵であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し[10]、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。
1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスペルン=エスリンクでのドナウ橋の防衛で有名である。
制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。
皇妃竜騎兵(Dragons de l’Impératice
1807年に皇帝近衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Impériale)として創設され[10]、翌年皇妃ジョセフィーヌに敬意を表して改称された。
この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の近衛連隊からの志願者も編入を認められた。
この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので[10]、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、古参近衛隊と新規近衛隊の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。
近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale[11]
第1連隊(ポーランド)
1807年にナポレオンがポーランド軽騎兵の近衛連隊を創設することを承認した。フランス人の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽騎兵を側近に置き、翌年のソモシエラの戦いでは、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の古参近衛隊と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。古参近衛隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊と同じく、敵に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ヴィスツラ・ウーラン(1e Vistula Uhlans)というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。
ウーラン槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は珍しくなく、ここによく表されている。フランス人に教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となり、彼らの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。
第2連隊(フランス=オランダ)
1810年にフランス人とオランダ人が中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵(Les Lanciers Rouges)と呼ばれた。
この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた。連隊は1813年に再編制され、その最初の4個大隊は古参近衛隊で構成されたために強力になり、さらに新規近衛隊から6個大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも参加した。
第3連隊(ポーランド)
1812年に新規近衛隊の一部として編制された。士官や下士官は古参兵であり、兵卒はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で、熱烈ではあるがまだ経験が足りない者たちで構成された。
訓練が足りないままにロシア戦役に投入され、1812年の遅く、コサックとユサールによって包囲されスロニムで崩壊した。
近衛儀仗騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale)
1813年に新設された彼らは、ナポレオンが新しく考案したサポート専門の騎兵であり、近衛騎兵の各連隊に随伴して、様々な支援任務をこなすことを求められた。これを儀仗兵(Gardes d'honneur)に例えた。新しく徴集した富裕層子弟中心の青年騎兵から選ばれた者たちで4個連隊が編制された。これを発展させて高度なスカウト任務も与えられた者たちが、近衛偵察騎兵になった。
近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde Impériale
モスクワからの惨憺たる退却中、ナポレオンは数多くのコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝近衛隊の再編制期間中に、彼らを参考として新しい騎兵旅団を創設した。そして各1,000名から成る3個連隊が創設されて既存の連隊に付けられた。第1連隊はクロード・テスト・フェリColonel-Major(皇帝近衛隊限定の名誉大佐称号)が指揮した。(1814年3月14日にクラオンヌの戦場で彼は負傷し、ナポレオン自身から男爵の称号を授かった)

近衛砲兵

近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde impériale)
この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は当初3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で、重砲4門または軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核にした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて、新規近衛隊の支援砲兵になり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は、近衛徒歩砲兵第1連隊を形成して、古参近衛隊の支援砲兵になる他、皇帝直率の予備砲兵になった。
近衛騎馬砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde impériale)
近衛騎馬砲兵の採用には、最高に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は、徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は、全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。3個大隊構成で、各大隊は2個中隊を擁しており、各中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。

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  2. ^ Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815, Accessed March 16, 2006
  3. ^ Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde, Accessed March 16, 2006
  4. ^ Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  5. ^ Foot Grenadiers in the Imperial Guard, Accessed March 16, 2006
  6. ^ Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  7. ^ FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101, Accessed March 16, 2006
  8. ^ Grand Tenue - Marins de la Garde, Accessed March 16, 2006
  9. ^ By Order of the Commander-in-Chief: the Origin of the Guides-a-cheval, Accessed March 16, 2006
  10. ^ a b c d e f g 『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』創元社。 
  11. ^ Napoleon's Polish Lancers, Accessed March 16, 2006
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『図解 ナポレオンの時代武器防具戦術大全』レッカ社。 
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  16. ^ a b c d ナポレオンの軍隊 近代戦術の視点からさぐるその精強さの秘密. 光人社NF文庫. pp. 83,82 
  17. ^ a b ナポレオンの軽騎兵 華麗なるユサール. 新紀元社. pp. 14-15,25,38 
  18. ^ Mas, M.A. M., p.81.
  19. ^ 青銅砲とされる場合もあるが、いわゆる青銅(の合金)に加え、真鍮(銅・亜鉛合金)、砲金(ガンメタル、銅・錫・亜鉛合金)製のものも含め青銅(ブロンズ)と呼ぶことがあるためである。
  20. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
  21. ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
  22. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
  23. ^ Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
  24. ^ 帝国元帥(Maréchal de l'Empire)は階級ではない。師団将軍で傑出していると認められた者の名誉称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(仏:General de division)である。 Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.
  25. ^ 各兵科最先任の将官に対する名誉称号(『華麗なるナポレオン軍の軍服 134頁、上級大将として記述。』 マール社 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子監修翻訳 2014年10月20日。)であり階級ではない。帝国元帥にもなった者を除いてはルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte)、ジュノー(Jean Andoche Junot)、ディリエ(Louis Baraguey d'Hilliers)などが叙任された。
  26. ^ 軍団長としての地位であり階級ではない。1812年廃止。その後1814年に復活するも、1848年に再び廃止された。但し階級章(四つ星)自体は軍団長たる師団将軍(仏 : Général commandant de corps d'armée)のものとして使用された。 Général または General-in-chief 参照。
  27. ^ 旧体制及び1814~1848年は中将(Lieutenant-Général
  28. ^ アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。
  29. ^ 旧体制及び1814~1848年は陣地総監(=少将)(Maréchal de camp
  30. ^ 将軍付き幕僚としての地位であり階級ではない。大佐(Colonel)または中佐(Major)が任じられた。序列は少将(Général de brigade)と大佐(Colonel)の間とされる事が多かった。
  31. ^ 1793~1803年は半旅団長(Chef de brigade
  32. ^ Chef d'escadronは騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の大隊長
  33. ^ a b c 後者は騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の呼称
  34. ^ フランス軍の Caporal および Brigadier は、上等兵であることが多いが第一帝政では下士官であり、その後1818年までは下士官である。
  35. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 36-54
  36. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74
  37. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92
  38. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209
  39. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144
  40. ^ Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee
  41. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171
  42. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287
  43. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297
  44. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312





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