大陸軍 (フランス) 騎兵

大陸軍 (フランス)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/18 13:06 UTC 版)

騎兵

皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。1個騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、各大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「精鋭」と称され、最高の兵士と馬があてられた。

フランス革命の流れの中で、封建制度(アンシャン・レジーム)の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。

役割に応じて重騎兵と軽騎兵に分けられた。

重騎兵

胸甲騎兵Cuirassiers[10][12][13][14][15][16]
胸甲騎兵は中世の騎士の如く重い真鍮や鉄製の兜に胴体を包む胸当てと背当ての組み合わせの胴鎧(胸甲)を着け、斬撃も出来るが、刺突により向いており、統制のとれた突撃では切っ先を使って刺突する事が多かった長くて重い直刀型サーベル(サーベルは騎兵の主要武器であり、その形状は兵科により様々であり、重騎兵は長くて重い直刀型サーベルを好み、軽騎兵は軽量の曲刀型サーベルを好んだ[12])と1対の拳銃、カービン銃で武装していたが、ほとんどの胸甲騎兵はすぐに騎銃を持たなくなった。フランス胸甲騎兵はナポレオン時代の最強の重騎兵であり[13]、彼らは戦場ではほぼ無敵であり、アイラウやボロジノの戦いでその真価を見せつけた。戦場ではほぼ激突攻撃だけに用いられ、突撃任務において特別な能力を持っていたが[14]、自前のピストルを使用した散兵戦もある程度は行えた。1812年の装備改定にて胸甲騎兵もカービン銃を装備するようになった[14]。兜と胸甲は銃弾とサーベルと騎兵槍に対する十分な防御効果を持っていた。また、彼らは敵の前進に対する効果的な反撃部隊としても使う事ができ、もし彼らが縦隊や横隊の歩兵を発見し、側面や背後を襲撃する事が出来れば、重騎兵が隊列に突進して、歩兵を斬る、馬の蹄で踏みつけるといった攻撃で、敵を壊滅させられた[12]。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。
騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。彼らの着けている甲冑や武器の重量のために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出した。胸甲騎兵は精鋭とし[15]ての自覚を持ち、多数の竜騎兵を含む騎兵の予備部隊の中核をなし、予備の騎兵は勝敗を決する決定的な時期にのみ、熟慮の末に投入され、大集団で運用された[15]。重騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンの近衛騎兵だと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍(Horse Guards)にも採用しようとした。
ナポレオンの胸甲騎兵の運用思想は、敵を総崩れにさせられる地点を戦場で見つけ、騎兵突撃の圧倒的な威力を投入するというものだった[15]。理論上は騎兵突撃開始前に砲兵が準備砲撃を実施しておき、砲撃で弱体化した敵に速度を徐々に上げた騎兵が突入する事になっていた[15]。速歩から始まる胸甲騎兵の突撃は、やがて駆歩へと速度を速め、そして敵陣から150mの位置に迫った時に襲歩へと移行し始め、最後の50mは全速力で疾走する事になる[15]。だが、現実にはフランス軍の司令官は胸甲騎兵に密集隊形をとらせるのを好んだために、理論通りの急激な速度変更は難しかった[15]。司令官たちは胸甲騎兵に大群で緊密な隊形を組み、将兵のブーツ同士が触れるほどになるように命じたが、密集陣形を維持するのは難しく、実際には速度を上げるのは不可能であり、当然のことながら、個々の騎兵が自主性を発揮する機会は奪われた[15]。しかし、このような運用により、胸甲騎兵部隊の前進を阻止するのはほぼ不可能になり、敵騎兵の隊列を崩し、緊密な陣形を組めない歩兵を蹄とサーベルで粉砕できるようになった[15]。だが、それでも胸甲騎兵は、銃剣を装着した歩兵の緊密な方陣、例えば、ワーテルローの戦いに見られたようなものを突破できる戦術を持たず、また、密集隊形での突撃は照準を的確に行う敵砲兵に対して脆弱性をさらす事にもなった[15]。しかし、カトル・ブラの戦いやその後のワーテルローの戦いで、フランス胸甲騎兵の突撃を持ちこたえた強靭なイギリス方陣のイメージは全ての歩兵大隊は方陣を組むべきで、方陣は騎兵攻撃に耐えられるという誤った印象を与えるが、これは間違った考え方であり、ナポレオン戦争時のイギリス歩兵は、当時の最強歩兵であり、彼らの士気と訓練は他に類を見ないもので、実際にナポレオン戦争ではフランス騎兵も同盟国側の騎兵も歩兵の方陣を崩しており、単にある隊形を組むだけでは騎兵突撃を撃退する事は出来ず、頑健な精神に並外れた訓練、冷静な勇気がなければ、押し寄せてくる重騎兵の攻撃を前にして、歩兵方陣を断固として持ちこたえる事は出来ない[12]。その全てがあっても部隊が圧倒される事もあり、イギリス歩兵がカトル・ブラとワーテルローで成し遂げた事はとてつもない偉業である[12]
この時代の多くはそれぞれ侮りがたい騎兵部隊を保持しており、フランス革命戦争では列強の騎兵はほぼ互角だったが、ナポレオンが1805年の征服戦役で大陸軍を立ち上げると、フランス騎兵は世界最強の存在となり、なかでも胸甲騎兵はナポレオン戦争において支配的な部隊であり、イギリスのスコッツ・グレイズ(第二竜騎兵連隊)やロシアの近衛騎兵など同様の力量がある精鋭部隊は他国にもあったが、全体として見ると1800年から1812年までのフランス重騎兵は無類の存在だった。しかし、ロシア戦役においてフランス騎兵部隊が崩壊し、その後の1813年と1814年の戦役ではフランス騎兵は以前の様に交戦相手を支配する事が出来なかった。オーストリア軍とロシア軍とプロイセン軍にも胸甲騎兵の連隊はあったが、彼らはフランス胸甲騎兵の技量と豪胆さにはとても太刀打ち出来ず、いつも負かされており、実のところ、同盟軍の多くの騎兵は、重さと鞍の上での動きの問題があるという理由で、胸甲を廃止すらしており、1809年までにオーストリア軍は胴体の前だけ覆いがあり、脇と背中はそのままの半胸甲を胸甲騎兵に支給し始めており、この半胸甲は胸甲騎兵を軽量化し、戦役における馬の負担を減らしたが、フランス重騎兵との混戦では攻撃されやすくもなった。ナポレオンは胸甲騎兵について以下の言葉を残している[12]
「胸甲騎兵は他の全ての騎兵よりはるかに役に立つ。この兵科は……十分に教育する必要がある。胸甲騎兵こそ、馬に乗る兵の知識が最高度に達していなければならないのだ」
重騎兵でも軽騎兵でも力点が置かれるのは激突戦術で、火器はサーベルや槍に次ぐ補助的な武器であり、ほとんどの騎兵は拳銃を携帯しており、中には騎銃を持つ者もおり、重騎兵は敵の方陣を攻撃する時によく拳銃を使い、それは決着を着ける武器ではなく、敵に苛立ちを起こす武器であった[12]。攻撃する騎兵は常に動いているために、一度、拳銃を発射したら襲歩で駆けている騎兵が再装填する事はほぼ不可能であり、拳銃は騎兵同士の混戦でも使う事が出来たが、接戦においては常に、誤射の可能性が高く精度の低い単発の拳銃よりサーベルが好ましかった。また、ナポレオン戦争が進むにつれ、騎銃は騎兵の武器の中で重要度を増していった。
竜騎兵Dragons[10][12][15]
重騎兵とも思われていたが、竜騎兵と槍騎兵(オーストリア軍とプロイセン軍のウーラン)は重騎兵と軽騎兵の混合であり[12]、竜騎兵は胸甲騎兵の様な防具を身に着けていなかったために、銃弾を掻い潜りながら、突撃する任務には適していなかったが、代わりに軽装備で機動性に優れており、敵をけん制して隊列を崩す、偵察をこなすなど胸甲騎兵とは別の分野で活躍した。フランスの騎兵で最も数が多かったのが竜騎兵であり、ナポレオン戦争の初期には、竜騎兵が胸甲騎兵と共に戦果をあげる事が多く、重騎兵の一種の補助兵力として機能していた[15]
彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的な直刀型サーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗だけでなく歩兵のように徒歩でも戦えるようになっていた。その融通性は歩兵としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎兵のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎兵に適した馬を見つけることも大変であった。騎兵馬欠乏の際にはしばしば歩兵士官の乗用馬が提供させられたので、ステータスである騎乗を断念させられた歩兵将校の中には、竜騎兵に対して反感を持つ者もいたようである。
当初25個連隊、後に30個連隊あったが、1815年の「百日」の時はわずか15個連隊しかできなかった。
カービン銃騎兵(Carabiniers-à-Cheval)[10]
その前身は、フランス国王軍の精鋭騎兵隊である。カービン銃騎兵は、胸甲の防御に頼らない素早い剣さばき技術と、馬上射撃技術の伝統部隊であった。もっとも当時のヨーロッパ諸国の重騎兵の多くは重量胸甲を身に着けていなかったので、こちらの方が標準である。ナポレオン軍独特の胸甲騎兵が無謀な突撃を多用していたのに対して、カービン銃騎兵は馬上射撃と分別ある切り込み白兵戦を専門にしていた。
1812年にナポレオンは彼らにも鉄の胸甲を着けるように命令した。胸甲を着用しないことを誇りにしていた彼らは大いに口惜しがったが、ローマ帝国風の金色胸甲を着用したカラビニエは、フランス帝国式の銀色胸甲を着用するキュラシエとの、ファッションの対象をなした。フランス胸甲騎兵と騎馬騎銃兵という装甲騎兵はヨーロッパの戦場を支配する舞台となり、同盟軍の悩みの種となった。重騎兵としてナポレオン自身が散兵任務を行わせない様に厳命していたが、騎馬騎銃兵も必要に応じて散兵戦を行った[14]

軽騎兵

ユサール (Hussards)[12]
ユサールは全軍の中でも最も優れた騎乗技術と剣術の精鋭たちで、危険な任務も恐れない命知らずたちであった。
曲刀型サーベルとピストルを携帯して任務にあたり、ユサールの行軍速度はフランス軍の中でも最速で、彼らはその機動力を活かして偵察隊としてのパトロールや敵を撹乱するための襲撃や味方の動きを察知されない様に警戒幕を構成して敵の目から隠した[15]
1804年には10個連隊、最盛期には14個連隊あった。銃剣を装備する様に命じられた記録もあるが、実戦で彼らが、銃剣を使用したか、あるいは所持し続けたかどうかはわからない[17]。また、非常に変則的で稀な武装形態として騎兵槍もあった[17]
「30歳までに死ななかったユサールは下衆野郎だ」という言葉も残されており、死傷率は高かった。
猟騎兵(Chasseurs-à-Cheval)[12]
上記のユサールと武装や役割が似た軽装騎馬隊だが、騎銃を装備し、状況によっては徒歩で戦う点を除けば、ユサールと同じ様なものだった[15]。銃器を部隊に多く配備されていた為に猟騎兵は銃器をもって行う騎馬散兵戦や騎兵幕の形成を得意としているが、突撃が出来ないわけではない[14]。ただし、上述の皇帝近衛猟騎兵連隊や歩兵の類似部隊とは異なり、特権的なものもなく、精鋭でもなかった。しかし、最も数の多い部隊であり、1811年に31個連隊あった。このうち6個連隊は非フランス人部隊であり、ベルギー人スイス人、イタリア人、ドイツ人で構成された。
制服は色遣いが少なく、歩兵とおなじような円筒帽(ユサールの目立つ熊毛帽と対照)、緑の上着、緑の乗馬用ズボンと短い長靴だった。
槍騎兵Lancers[10][12][14][15][16]
細長い騎兵槍をメインウェポンとし、曲刀型サーベルと拳銃をサブウェポンとして装備、胸甲とヘルメットも装備[16]、時には騎銃(カービン銃)も加えて武装する騎兵[14]。雨天でマスケット銃が湿る場合は槍が敵歩兵に対して効果的だったが、騎兵同士の乱戦では槍はサーベルに対し、不利だった。[16]
古代から中世の戦場において、騎兵たちの主要武器は常に槍であり、槍を装備した騎兵たちの突撃は高い攻撃力を誇り、戦場の花形として活躍していたが、17世紀には東欧を除くヨーロッパの戦場では騎兵槍はほとんど使われなくなっていた[14]。16世紀半ばにピストルが発明され、ピストルと剣を主力武器とする騎兵のコストパフォーマンスの良さとピストルの槍を上回る射程、投射武器や歩兵の槍による脅威度の上昇により重武装、重装甲化を始めたことにより、16世紀頃には12世紀の軽快さを失っていた事、重装過ぎる騎兵の槍による突撃戦法は長槍を装備した歩兵の前では効果は薄く、また、火薬を得て更に強力になった投射武器の前では近づく事も困難であった事が原因であり、西欧において、兵科としての槍騎兵は一旦の滅亡を迎えた[14]。しかし、東欧においては事情が異なり、長槍、後にマスケット銃を装備した歩兵の密集陣形が主流であった西欧とは違い、東欧各国が正対した脅威は短い槍や火縄銃(後にフリントロックマスケット)などを装備したオスマン軍の各種近接歩兵の波状攻撃であり、十分に騎兵が運動し、迂回などが容易に出来る戦場であった[14]。これらの歩兵には依然として騎兵による突撃戦法が必要で、正面突撃こそ頻度が減ったものの、槍騎兵の迂回突撃は十分に決定的な突撃となり得るものであった[14]。重装な槍騎兵というものは火力の上がる戦場において生存が難しくなっていたが、軽装な槍騎兵は戦場で活躍する余地が十分に残されており、また、軽装化した槍騎兵は重要性が上がる軽騎兵任務において使用が可能であるという利点も存在し、この様な土壌と、民族的要因による槍騎兵復興の運動が合致し、槍騎兵復興運動の萌芽が生まれた[14]。ナポレオン戦争期における槍騎兵の復興運動はこの様な文脈の上に存在した[14]
ナポレオン戦争時のフランス槍騎兵は突撃兵科である重騎兵ではなく、偵察、哨戒、捜索、騎兵幕の作成などを行う軽騎兵として編成された。各国の槍騎兵の編成も重騎兵ではなく、中騎兵や軽騎兵の編成を取る事が多かった[14]。しかし、軽騎兵的な運用が主であるとは言え、会戦に投入されることもままあった[14]。特に槍は突撃において曲刀に優っており、対騎兵戦闘で有利とされ、また、方陣に対し、銃剣よりもリーチで優る槍は対歩兵において曲刀や直剣より効果的であったとされ、一種の「万能騎兵」的な側面があったが、ただし、これは槍騎兵に限った話ではなく、他の軽騎兵でも同様であった[14]。当時の騎兵マニュアルにおいて、騎兵がサーベルで攻撃する際は銃剣をパリィするという動作があるのに対し、槍騎兵の章では省かれており、また、歩兵に対する攻撃のみならず、歩兵に対する追撃においても槍は威力を発揮した[14]。追撃されている歩兵は騎兵を回避する為に伏せる行為を行ったが、槍は伏せている人間を突くことも出来た[14]。しかしながら、いくら歩兵に対して強力であろうとも、歩兵が組んだ方陣には限定的な効果しかなく、事例としては、シウダッド・レアル、ドレスデン、カツバッハなどの事例にて槍騎兵は歩兵の方陣を崩す事に成功しているが、カツバッハの戦いは大雨であったために、歩兵が発砲する事が出来なかった[14]。また、方陣を崩す事に成功した場合よりも、方陣を崩すことに失敗、あるいは断念した場合の方が圧倒的に多く、槍の優位性を以てしても、歩兵の方陣を崩す事は困難であり、それらの攻略には諸兵科連合による攻撃か重騎兵が必要であった[14]
騎馬戦においては槍の突撃における衝撃能力の高さは広く認知されていたものの、白兵戦においての取り回しの悪さが懸念となっていた[14]。戦績を見ると軽騎兵との戦闘においては多くの勝利を収めており、突撃に成功した場合は槍騎兵は軽騎兵に撃退されることがほとんどなく、また、竜騎兵などの中騎兵に対しても、突撃を行った場合は勝利を収める可能性が高いが、フリーラントの様に最終的に白兵戦にて敗北した例も存在する[14]。各種親衛隊騎兵や胸甲騎兵や騎馬騎銃兵などの重騎兵に対しての不利は存在し、ほとんどの戦闘が槍騎兵の敗北に終わっている[14]。また、槍はひしゃげたり折れたり敵に突き刺さったままに抜けなくなる場合があり、少なくともこれらの欠点はどの国もある程度は事実であると考えていたために、全ての国の槍騎兵は予備の武器としてサーベルを携帯した[14]
騎兵槍は使いこなすことが難しく、槍を使いこなすには熟練が必要で、人によっては、それに加えある種の才能が必要とまで考えた。[14]訓練を行わず、槍を使いこなせない槍騎兵は非常に戦力的な価値が低い事も知られており、ワーテルロー戦役に参加したある将校は「悪い槍使いは悪い剣使いよりも使い物にならない」と述べている[14]
槍騎兵は重騎兵の攻撃力と軽騎兵の機動力を兼ね備えた非常に攻撃的な兵科であり、騎兵との乱戦では槍の長さが邪魔になる事も少なくなかったが、こうした場合には槍を捨てて、サーベルに持ち替える事で対応でき、追撃戦では重騎兵よりも有利に戦う事が出来た。騎兵同士の乱戦では槍は扱いにくく、邪魔になり、サーベルに敵わなかったために、槍騎兵連隊では一部の兵士に騎兵槍を装備させず、騎兵槍を持つ騎兵をサーベルを持つ騎兵が援護する様にした[15]。逆に言えば、槍は歩兵相手に戦う時は必要不可欠であり、槍騎兵は簡単に歩兵を刺し貫く事ができ、槍は方陣隊形の歩兵に対して有効に使える白兵戦武器であった。また、隊形が崩れた歩兵や退却する敵縦隊に対して、あるいは追撃中の敵輜重縦列の中にいる時などは、槍騎兵に敵うものはなく、彼らは大暴れする事が出来た。おそらく、槍の使用と歩兵の方陣隊形の有効性を最も明確に実証している戦闘は、1815年夏に行われたカトル・ブラの戦いであろう[12]。また、意のままに襲撃を加える槍騎兵は、小競り合いにも有効だった[15]
総合して見ると、槍騎兵は他の兵科に対して圧倒的優位であるとは言う事が出来ないものの、突撃を行える多くの状況で優位であった[14]。しかし、会戦において大きな戦果を上げた槍騎兵部隊の殆どは各国の親衛隊の騎兵であり、猟騎兵が散兵戦に秀でており、ユサールが奇襲を得意とした様に、通常の槍騎兵は突撃と追撃が得意であった[14]
フランス騎兵の槍は、ポーランド騎兵が持つものよりやや短く、やや重かった[12]。フランスの槍騎兵連隊はナポレオン戦争の最後の戦役ですばらしい評判を獲得した[12]

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  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 兵士の歴史大図鑑. 創元社. pp. 158,159,160 
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  18. ^ Mas, M.A. M., p.81.
  19. ^ 青銅砲とされる場合もあるが、いわゆる青銅(の合金)に加え、真鍮(銅・亜鉛合金)、砲金(ガンメタル、銅・錫・亜鉛合金)製のものも含め青銅(ブロンズ)と呼ぶことがあるためである。
  20. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
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  22. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
  23. ^ Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
  24. ^ 帝国元帥(Maréchal de l'Empire)は階級ではない。師団将軍で傑出していると認められた者の名誉称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(仏:General de division)である。 Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.
  25. ^ 各兵科最先任の将官に対する名誉称号(『華麗なるナポレオン軍の軍服 134頁、上級大将として記述。』 マール社 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子監修翻訳 2014年10月20日。)であり階級ではない。帝国元帥にもなった者を除いてはルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte)、ジュノー(Jean Andoche Junot)、ディリエ(Louis Baraguey d'Hilliers)などが叙任された。
  26. ^ 軍団長としての地位であり階級ではない。1812年廃止。その後1814年に復活するも、1848年に再び廃止された。但し階級章(四つ星)自体は軍団長たる師団将軍(仏 : Général commandant de corps d'armée)のものとして使用された。 Général または General-in-chief 参照。
  27. ^ 旧体制及び1814~1848年は中将(Lieutenant-Général
  28. ^ アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。
  29. ^ 旧体制及び1814~1848年は陣地総監(=少将)(Maréchal de camp
  30. ^ 将軍付き幕僚としての地位であり階級ではない。大佐(Colonel)または中佐(Major)が任じられた。序列は少将(Général de brigade)と大佐(Colonel)の間とされる事が多かった。
  31. ^ 1793~1803年は半旅団長(Chef de brigade
  32. ^ Chef d'escadronは騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の大隊長
  33. ^ a b c 後者は騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の呼称
  34. ^ フランス軍の Caporal および Brigadier は、上等兵であることが多いが第一帝政では下士官であり、その後1818年までは下士官である。
  35. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 36-54
  36. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74
  37. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92
  38. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209
  39. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144
  40. ^ Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee
  41. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171
  42. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287
  43. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297
  44. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312





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