全日本F3000選手権
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年表
- 1983〜1986年
- 1983年秋、ターボエンジン隆盛に伴いF1で余剰気味となっていたコスワースDFVエンジンの転用方法として、バーニー・エクレストンが新カテゴリー、F3000を提案[19]。
- 1984年7月、FISA、1985年からF3000規定施行を決定[19]。
- 1984年11月30日、JAF、1988年までの全日本F2選手権継続を決定[19]。
- 1985年3月24日、ヨーロッパF3000選手権第1戦がシルバーストン・サーキットで開催される。
- 1985年8月、F1・オーストリアグランプリと併催のヨーロッパF3000・第9戦エステルライヒリンクをホンダランド関係者が視察[19]。
- 1985年9月、ホンダランド(現:ホンダモビリティランド)と全日本F2関係者間で会議。1987年の全日本F2・最終戦からF3000マシンと混走、1988年からF3000移行で合意[19]。
- スピードスターレーシング、マーチから1986年の全日本F2選手権用シャシーをF3000仕様で購入[20]。
- 1986年4月13日、国際F3000選手権第1戦がシルバーストン・サーキットで開催される。
- 1986年10月13日、スピードスターレーシング、鈴鹿サーキットでF3000マシンでテストを行う[21]。
- 1986年11月19日、1987年から全日本F3000シリーズ開催を決定[22]。
- 1986年12月1〜4日、各タイヤメーカー、鈴鹿サーキットでF3000用タイヤのテストを行う[19]。
- 1987年
- 3月7・8日、全日本F3000シリーズ第1戦が鈴鹿サーキットで開催される。出走17台(マーチ14台、ローラ3台)。星野一義、全日本F3000開幕戦を制す。
- 5月9・10日、西日本サーキットで第3戦を開催。鈴木利男初優勝。
- 7月25・26日、菅生サーキットで第6戦を開催。ヤマハの5バルブエンジン、OX77がデビュー。
- 8月8・9日、富士スピードウェイで第7戦を開催。出総台数が20台に。ヤマハOX77エンジン、ヤン・ラマースのドライブにより初優勝。ダンロップ、F3000初優勝。
- 9月11日、フットワーク/ムーンクラフト、1990年からのF1進出計画が明らかに。日本経済新聞が報じる[23]。
- 9月12・13日、鈴鹿サーキットで第8戦を開催。鈴木亜久里初優勝。星野一義、初代全日本F3000チャンピオンに。
- 国際F3000のトップチームであるオニクス、ステファノ・モデナを擁して全日本F3000最終戦・鈴鹿への参戦を計画[24]も実現せず。
- 12月5・6日、第9戦を鈴鹿サーキットで開催。出走19台(マーチ10台、ローラ9台)。鈴木亜久里連勝。
- 12月17日、FISAが1988年から5バルブエンジンの使用禁止を決定。全日本F3000のみ1988年までの使用が認められる。
- 1988年
- フットワーク/ムーンクラフト、鈴木亜久里とともに国際F3000にスポット参戦。
- 童夢、ムーンクラフト、オリジナルシャシーを開発・製作。
- トムス、オリジナルシャシーの開発を開始[25]。
- 3月12・13日、全日本F3000選手権第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走18台(マーチ10台、ローラ8台)。
- マーチの国内代理店のルマン、不振のマーチシャシーを諦め、第5戦菅生から使用シャシーをレイナードに変更することに。
- 7月30・31日、第5戦を菅生サーキットで開催。レイナードが全日本F3000にデビュー、ジェフ・リースのドライブによりデビューウィンを飾る。ロス・チーバー、ダンロップに国内トップフォーミュラでは1983年8月、全日本F2・第6戦富士以来のポールポジションをもたらす。
- 8月13・14日、富士スピードウェイで第6戦を開催。和田孝夫初優勝。ヨコハマタイヤ、F3000初優勝。ムーンクラフトのオリジナルシャシー、MC-031実戦デビュー。
- 9月24・25日、第7戦を鈴鹿サーキットで開催。鈴木亜久里全日本F3000チャンピオンに。
- 10月28〜30日、鈴木亜久里がF1・日本グランプリにラルースからスポット参戦。
- 11月22日、鈴木亜久里、1989年からのF1フル参戦が決定。
- 11月26・27日、最終戦を鈴鹿サーキットで開催。マーチ、エントリーが3台にまで減少。ムーンクラフト、ニューシャシーMC-040をデビューさせる。
- 1989年
- 2月1〜5日、ダンロップ、童夢とともにオーストラリア・フィリップ・アイランドでタイヤテストを実施。松本恵二、ロス・チーバーのドライブにより2,600km以上の走り込み[26]。
- フットワーク/ムーンクラフト、オリジナルシャシーで片山右京とともに国際F3000にもフル参戦。
- レイトンハウス、マーチを買収しオリジナルマシンを製作。全日本F3000と国際F3000で使用(1990年まで)。
- 1988年から全日本F3選手権にチームとして参戦を開始した戸田レーシングが全日本F3000に進出。
- 3月4・5日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走22台。
- 4月15・16日、第2戦を富士スピードウェイで開催。ロス・チーバー初優勝。
- 5月13・14日、第3戦を西日本サーキットで開催。中谷明彦がデビュー3戦目でポールポジションを獲得。
- 全日本F3000参戦チームによるエントラント団体・FORCEの設立が計画される[27]。
- 5月27・28日、第4戦を鈴鹿サーキットで開催。エマニュエル・ピロ初優勝。
- エマニュエル・ピロ、7月7〜9日開催のF1・フランスグランプリからベネトンのレギュラードライバーに転身。
- 9月22・24日、第7戦を鈴鹿サーキットで開催。小河等初優勝。
- 10月22〜24日、パオロ・バリッラがF1・日本グランプリにミナルディからスポット参戦。翌1990年からレギュラードライバーに。
- 11月4・5日、最終戦を鈴鹿サーキットで開催。小河等全日本F3000チャンピオンに。ダンロップ、4勝を挙げ3勝のブリヂストンを上回る。長谷見昌弘、1980年7月、全日本F2・鈴鹿以来の国内トップフォーミュラ優勝。
- 12月13〜14日、鈴鹿でブリヂストンのF3000タイヤテスト。13日にジョナサン・パーマードライブの無塗装のレイナード88D/無限が走る。「ホンダがF1用のアクティブサスペンションの開発テストを行っているのでは」とF3000関係者に噂される[28]。
- 1990年
- レイナード、横置きトランスミッションの90Dを開発・製作。
- フットワークとムーンクラフトが提携を解消。
- 前年度F1のレギュラードライバーだったジョニー・ハーバート、クリスチャン・ダナー、フォルカー・ヴァイドラー、エンリコ・ベルタッジアが全日本F3000に参戦。
- ミリオンカードが鈴鹿開催の4レースの冠スポンサーとなり、イベント名が「ミリオンカードカップF3000鈴鹿シリーズ」となる。
- 1月20〜27日、ダンロップが童夢、MSDと共にオーストラリア・フィリップ・アイランドでタイヤテストを実施。ロス・チーバ―、トーマス・ダニエルソン、岡田秀樹が参加[29]。
- 3月3・4日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走31台。混雑解消を目的に、予選を2組に分けて行うことに(1992年開幕戦まで)。星野一義4年連続で開幕戦を制す。
- 3月23日、村松栄紀、富士スピードウェイでのタイヤテスト中に事故死。ローランド・ラッツェンバーガー、富士スピードウェイにサーキットの安全性の改善を求める意見書を提出[30]。
- 第3戦・美祢から日本信販が、鈴鹿開催以外のレースで冠スポンサーに就くことが発表される。
- 5月12・13日、第3戦を西日本サーキットで開催。松本恵二、1986年5月、全日本F2・西日本以来の国内トップフォーミュラ優勝。
- 7月7日、JAF、1991年度のレースカレンダーを発表。オートポリス、8月30〜9月1日に国際F3000の開催を予定[31]。
- 7月16〜18日、片山右京、菅生で行われたヤマハのF1テストに参加[32]。
- 7月28・29日、第5戦を菅生サーキットで開催。マウロ・マルティニ初優勝。レース中に赤旗4回と混乱。
- 第5戦・菅生でクリスチャン・ダナーが、富士スピードウェイの1コーナーのコンクリートウォールの撤去を求める嘆願書を作成し、各ドライバーに賛同を求める[33]。
- 9月1・2日、第7戦を富士スピードウェイで開催。高橋国光、全日本F3000の21戦連続完走の新記録を3位表彰台で飾る。
- 9月22・23日、第8戦を鈴鹿サーキットで開催。星野一義、優勝で1987年以来の全日本F3000タイトル獲得を決める。
- 10月19〜21日、ジョニー・ハーバートがF1・日本グランプリにロータスからスポット参戦。
- 10月27・28日、第9戦を富士スピードウェイで開催。フォルカー・ヴァイドラー初優勝。
- 11月、JFRA、JAFに年間レース数を8戦までとし、それ以外をノンタイトル戦とすることを要望[34]。
- 11月17・18日、第10戦を鈴鹿サーキットで開催。星野一義6勝目。高橋国光の連続完走記録、23戦で止まる。
- 1990年、全10戦で計56万1,400人を動員[35]。
- 1991年
- 童夢、オリジナルシャシーF102を開発・製作し開幕戦から実戦投入。
- メンテナンスガレージとして活動してきたセルモがチームを結成し全日本F3000に参戦。
- 全日本F3の有力チーム、ル・ガラージュCOXが全日本F3000に進出。
- ラルト、全日本F3000に初進出。
- レイナード、ルマンをワークスチーム化。3年契約[36]。
- 1月20〜27日、ダンロップ、童夢がオーストラリア・イースタン・クリークでタイヤテストを実施。ヤン・ラマース、松本恵二、古谷直広が参加[37]。
- 3月2・3日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走35台。レイナード、前年の不振によりエントリーを1台にまで減らす。片山右京初優勝。童夢、オリジナルシャシーでの初レースで3位表彰台。JFRA、特殊燃料使用の自粛を申し合わせ。
- 3月23・24日、第2戦をオートポリスで初開催。中谷明彦初優勝。
- 4月24日、東京R&D、F3000用オリジナルモノコックを製作。菅生サーキットでテスト[38]。
- 5月11・12日、第4戦を美祢サーキットで開催。エディ・アーバイン初優勝。
- フットワーク、第4戦美祢を以て全日本F3000から撤退。
- 5月頃?、影山正彦、コローニから2億円の資金持ち込みを条件にF1参戦を打診されるもこれを断る[39]。
- 7月27・28日、第6戦を菅生サーキットで開催。スポット参戦のミハエル・シューマッハが2位入賞。
- 8月10・11日、第7戦を富士スピードウェイで開催。ジャッドエンジン、全日本F3000に初登場。
- レイトンハウス、第9戦鈴鹿から活動休止。
- 9月30日、片山右京、1992年からのF1フル参戦が決定。
- 10月7日、中谷明彦、1992年からのF1フル参戦が決定。
- 服部尚貴が10月18〜20日開催のF1・日本グランプリと、11月1〜3日開催のF1・オーストラリアグランプリにコローニからスポット参戦。いずれも予備予選落ち。
- ペドロ・チャベスが11月16・17日開催の第11戦・鈴鹿に戸田レーシングからエントリーするも、テスト結果不十分のためエントリーを取り消し[40]。
- 11月30日、雨天順延となっていた第8戦の決勝レースを富士スピードウェイで開催(シーズン最終戦)。片山右京全日本F3000チャンピオンに。長谷見昌弘がF3000引退レースで5位入賞。
- 1992年
- 1月23日、FISA、中谷明彦のスーパーライセンス申請を資格不十分として却下。
- ニスモ、鈴木利男(ユニバーサルレーシング)を技術支援。
- Tカーの使用が禁止される[41]。
- 3月7・8日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走29台。JFRA、燃料の成分分析を実施[42]。
- 5月23・24日、第4戦を鈴鹿サーキットで開催。スポット参戦で出場の小河等、レース中に事故死。
- 6月21日、ロス・チーバー、インディカー第6戦・ポートランドにスポット参戦し11位完走。
- 7月19日、第5戦をオートポリスで開催。マルコ・アピチェラ初優勝。童夢、日本製シャシーによる全日本F3000初優勝。トム・クリステンセンが全日本F3000デビュー。
- 8月12日、黒澤琢弥、鈴鹿で行われたヤマハのF1テストに参加[43]。
- 8月15・16日、第7戦を富士スピードウェイで開催。フォルカー・ヴァイドラー、耳鳴りの症状が悪化し以降のレースを欠場。唯一のユーザーであった藤永敬道の撤退により、ラルトが撤退。
- 小河等の事故死を機に、全日本F3000ドライバーズ協会(JFDA)が発足。サーキット側に安全性の向上を求める[44]。
- 9月26・27日、第9戦が鈴鹿サーキットで開催。フォルカー・ヴァイドラーの代役としてハインツ=ハラルド・フレンツェンが全日本F3000にデビュー。星野一義、エンジンを無限からコスワースDFVに変更。
- 11月14・15日、第11戦を鈴鹿サーキットで開催。マウロ・マルティニ、外国人として初の全日本F3000チャンピオンに。服部尚貴初優勝。松本恵二引退。無限、可変吸気トランペット装備のエンジンをハインツ=ハラルド・フレンツェンとマルコ・アピチェラに供給。
- 1993年
- トムス、全日本F3000、国際F3000に進出。
- ニスモ、鈴木利男に加えて、星野一義(ホシノレーシング)にも技術協力。
- ムーンクラフト、オリジナルシャシーMC-060ELを開発・製作も実戦投入はせず。
- 2月9・10日、鈴鹿で合同テストが行われる。エディ・アーバイン、マルコ・アピチェラのダンロップ勢が、前年のF1・日本グランプリで予選8位に相当する1分41秒台を記録[45]。
- 3月20・21日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走24台。
- 4月10日、JFDA、日本自動車レース選手協会(JRDA)に改称[46]。
- 4月10・11日、第2戦を富士スピードウェイで開催。星野一義、1年8ヶ月ぶりの優勝。
- 4月22日、全日本F3000のオーガナイザー、エントラント、コンストラクターらがレギュレーションの改善、カテゴリーの振興、安全性の向上などを目的に日本F3000協議会を設立[47]。
- 6月24日、オートポリスで予定されていた第5戦の開催中止を決定。オートポリスの経営破たんが理由。
- 7月24・25日、十勝インターナショナルスピードウェイでF3000マシン7台によるエキシビジョン・レースを開催。
- 7月31・8月1日、第6戦を菅生サーキットで開催。ハインツ=ハラルド・フレンツェン車に無限・ホンダエンジン搭載。
- 8月14・15日、第7戦を富士スピードウェイで開催。決勝レース雨天中止。代替として全日本F3000で初めてピットウォークを行う[48]。
- 8月、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ムジェロ・サーキットでF1・ザウバーのテストに参加[49]。
- マルコ・アピチェラ、9月10〜12日開催のF1・イタリアグランプリにジョーダンからスポット参戦。
- 10月16・17日、第10戦を富士スピードウェイで開催。黒澤琢弥、ヒーローズを離脱。野田英樹がトムスから全日本F3000にデビュー。
- エディ・アーバインと鈴木利男、10月22〜24日開催のF1・日本グランプリと11月5〜7日開催のF1・オーストラリアグランプリにスポット参戦。エディ・アーバインが日本グランプリで6位入賞。
- 東京R&D、1994年からの全日本F3000進出を目標に、菅生でオリジナルマシンのテスト。
- 11月13・14日、第11戦を鈴鹿サーキットで開催。星野一義、3度目の全日本F3000チャンピオンに。
- エディ・アーバイン、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ローランド・ラッツェンバーガーが1994年からF1のレギュラードライバーに。
- 1994年
- コスト抑制を目的にタイヤ3セットルールを導入。事実上の予選用タイヤの禁止。
- ケン・マツウラ、コスワースDFVからジャッドにメンテナンスエンジンを変更。
- ムーンクラフト、ローラT92/50、T93/50用のモディファイド・カウルを開発・製作し、各チームに販売。
- 3月19・20日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走18台。ロス・チーバー、3年連続の開幕戦優勝。
- 9月17・18日、十勝スピードウェイで初のノンタイトル戦を開催。
- 10月1・2日、第7戦を鈴鹿サーキットで開催。F3の若手登用策を実施。中野信治、影山正美、高木虎之介を抜擢。
- 10月15・16日、第8戦を富士スピードウェイで開催。高橋国光、54歳8か月で3位表彰台に。
- ミカ・サロ、11月4〜6日開催のF1・日本グランプリと11月11〜13日開催のF1・オーストラリアグランプリにスポット参戦。
- 11月26・27日、第10戦を鈴鹿サーキットで開催。マルコ・アピチェラ全日本F3000チャンピオンに。国産マシンに乗るドライバーとして初。高橋国光F3000を引退。
- ミカ・サロ、1995年からF1のレギュラードライバーに。
- 1995年
- ダンロップ、阪神・淡路大震災により神戸工場が被災したため、全日本F3000から撤退。
- 3月18・19日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走18台。
- 5月7・8日、第3戦を美祢サーキットで開催。トム・クリステンセン初優勝。
- 7月8・9日、第5戦を菅生サーキットで開催。高木虎之介初優勝。コスト抑制を目的にタイヤウォーマーが禁止される。
- 9月16・17日、第7戦を十勝スピードウェイで初開催。
- 11月18・19日、第9戦を鈴鹿サーキットで開催。鈴木利男逆転で最後の全日本F3000チャンピオンに。
- ^ エンリコ・ベルタッジアは1989年にベルギーGPにてコローニからF1スポット参戦し、1992年にアンドレア・モーダからエントリーしたが、出走できなかったドライバー。
- ^ ジェフ・リースは1982年までF1に参戦し、来日した1983年から全日本F2選手権に参戦している。
- ^ ジェフ・リース同様、全日本F2選手権時代から参戦している。
- ^ フォルカー・ヴァイドラーは1989年にリアルからF1に参戦していた。
- ^ エマニュエル・ナスペッティは1992年にベルギーGPにてマーチ、1993年にポルトガルGPにてジョーダンからF1スポット参戦していた。
- ^ 『オートスポーツ』No.583 三栄書房、1991年、p.9。
- ^ 『Racing On』No.406 ニューズ出版、2006年、p.23。
- ^ 『Racing On』No.011 武集出版、1987年、p.40。
- ^ 『Racing On』No.042 武集書房、1988年、p.51。
- ^ 『オートスポーツ』No.565 三栄書房、1990年、p.651。
- ^ 『Racing On』No.083 武集書房、1990年、p.57。
- ^ 『Racing On』No.123 ニューズ出版、1992年、p.55。
- ^ 『Racing On』No.140ニューズ出版、1993年、p.53。
- ^ 『Racing On』No.104 武集書房、1991年、p.44。
- ^ 『Racing On』No.106 武集書房、1991年、p.76。
- ^ 『Racing On』No.052 武集書房、1989年、p.30。
- ^ 『Racing On』No.071 武集書房、1990年、p.80。
- ^ 亜久里vs右京対談 F1には、速くなるためのタイミングがある F1グランプリ特集 38頁 1992年7月16日発行
- ^ a b c d e f 「動き出した日本のF3000」 『Racing On』No.010 武集書房、1987年。
- ^ 『Auto Sport Year '86-'87』 三栄書房、1987年、p.89。
- ^ 『Racing On』No.008 武集書房、1986年、p.34。
- ^ 『Racing On』No.009 武集書房、1987年、p.41。
- ^ 『Racing On』No.019 武集書房、1987年、p.72。
- ^ 『Racing On』No.019 武集書房、1987年、p.71。
- ^ 『Racing On』No.035 武集書房、1988年、p.38。
- ^ 『Racing On』No.046 武集書房、1989年、p.63。
- ^ 『Racing On』No.052 武集書房、1989年、p.37。
- ^ 『Racing On』No.067 武集書房、1990年、p.9。
- ^ 『オートスポーツ』No.549 三栄書房、1990年、p.60。
- ^ 『Racing On』No.073 武集書房、1990年、p.53。
- ^ 『Racing On』No.080 武集書房、1990年、p.35。
- ^ 『Racing On』No.081 武集書房、1990年、p.40。
- ^ 『Racing On』No.081 武集書房、1990年、p.22。
- ^ 『Racing On』No.145 ニューズ出版、1993年、p.38。
- ^ 『オートスポーツ』No.570 三栄書房、1991年、p.85。
- ^ 『Racing On]』No.094 武集書房、1991年、p.40。
- ^ 『Racing On]』No.092 武集書房、1991年、p.24。
- ^ 『Racing On』No.098 武集書房、1991年、p.6。
- ^ 『オートスポーツ』No.585 三栄書房、1991年、p41。
- ^ 『Racing On』No.111 武集書房、1991年、p.43。
- ^ 『Racing On』No.118 武集書房、1992年、p.14。
- ^ 『Racing On』No.118 武集書房、1992年、p.41。
- ^ 『オートスポーツ』No.612 三栄書房、1992年、p.6。
- ^ 『Racing On』No.130 ニューズ出版、1992年、p.37。
- ^ 『Racing On』No.139 ニューズ出版、1993年、p.26。
- ^ 『Racing On』No.143 ニューズ出版、1993年、p.38。
- ^ 『カーグラフィック』No.391 二玄社、1993年、p.285。
- ^ 『Racing On』No.151 ニューズ出版、1993年、p.23。
- ^ 『Racing On』No.151 ニューズ出版、1993年、p.41。
- ^ 中部日本放送中継時代の1991年に第11戦でゲスト出演をしている。
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