保美貝塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 10:04 UTC 版)
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貝塚は大きく三ヶ所に区分でき、山喜製糸の工場建設に伴って滅失したA区、残存部分のうち、東側をB区、西側をC区としている[1]。山喜製糸は1909年(明治42年)6月に器械生糸製造工場として操業を開始しており、1917年(大正6年)、1927年(昭和2年)の2度に渡ってその規模を拡大し、1942年(昭和17年)2月15日にその役目を終えている[2]。調査は、1905年(大野延太郎)、1909年(清野謙次)、1922年(小金井良精・柴田常恵・大山柏)、1950年(中山英司)、1963年および1965年(久永春男)、1965年(小林知生)、1976年および翌年(小野田勝一)の7度に渡って行われている[1]。遺物として縄文晩期から弥生時代の土器が出土しており、また、人骨や貝類、哺乳類なども見つかっている[3]。
地理的条件と環境
渥美半島は東西に長く、三河湾と太平洋に囲まれた地域である。地質的に渥美半島は西南日本を二分する中央構造線の外帯に位置し、弓張山地の延長線上にある。 渥美半島の地形は、標高328メートルの大山を最高峰とし低い山地、洪積台地、沖積地による地形である。
保美貝塚は三河湾の奥に位置する福江湾内部の沖積平野に面した、洪積台地上にある。当時、貝塚地帯の眼前は海岸線であったと考えられるが、現在では免々田川が保美台地の東下を流れて、福江湾に注ぎ込む。
- ^ a b 愛知県史編さん委員会 2002, p. 676.
- ^ 渥美町町史編さん委員会 1991b, p. 223.
- ^ 愛知県史編さん委員会 2002, p. 677.
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