京城・昭和六十二年 碑銘を求めて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 13:10 UTC 版)
登場人物
- 木下英世(パク・ヨンセ、朴英世):38歳。1948年(昭和23年)10月18日生まれ。京城帝国大学商学部出身で満州から少佐で除隊した後、野口グループ傘下の半島軽金属株式会社の課長として働いている。故郷は清州である。妻の節子とは見合い結婚であり、このため小説内では節子より部下の時枝に思いを寄せる。
- 木下節子:英世の妻で、元山の名家出身。結婚前は李姓である。
- 木下惠子:英世と節子の一人娘で、中学3年生である。
- 木下平太郞(パク・ウォンシン、朴元信):英世の伯父であり、清州に住んでいる。清州にきた英世に朝鮮の言語と歴史について聞かせた。
- 島津時枝:半島軽金属の従業員。英世の直属部下で、島津義弘の直系の子孫である華族である。英世を思いつつエリック・アンダーソンと結婚する。
- エリック・アンダーソン :スウェーデン系アメリカ人。半島軽金属との合弁企業「ユサラム」の従業員。時枝との結婚以後、ヨーロッパに赴任する。
- 山下曾太郞:半島軽金属課長で、英世の出世競争の相手である。大阪帝国大学出身で入社も遅れたが、内地人という利点と軍部の要職の母方の叔父のおかげで英世の代わりに部長に昇格する。
- 靑木龍三郞:少佐。憲兵隊所属の議員少佐。節子の後輩である靑木李枝の夫で、節子を性的に翻弄した上惠子にセクハラをし、怒った英世に殺される。
- 小共:釋王寺の僧侶。韓龍雲の衣鉢の第二継承者であり、漢詩ができる。英世に「様の沈黙」を朝鮮語で朗読した後に韓龍雲の衣鉢を伝授する。
- 白山正臣:朝鮮評論家協会幹事で全鮮思想報国連盟会員で、英世の「更生教育」教官である。本来評論家を嘱望されたが、日本で開かれた学会で香山光郎の小説の原稿を発見して初めて朝鮮の存在を知った後、独立運動をしようとしたが、拷問を受けて転向する。
言及された人物
- 佐藤壽一:東京帝国大学教授であり、『独思随筆』の著者。1987年(昭和62年)のクーデターで逮捕される。
- 東鄕信夫:海軍出身の朝鮮総督。
- 阿部治憲:小説の開始時点の日本の首相。中華人民共和国との戦争の失敗と民主化運動鎮圧失敗の責任を問われ、辞任する。
- 佐藤圭介:阿部治憲首相の後任に入った空軍予備役大将出身首相。空軍が主導した内閣は、最終的に陸軍のクーデターに崩れる。以後軟禁されたものと思われる。
- 荒木正休:中将。佐藤圭介内閣を覆したクーデターの主役である陸軍中将で、クーデター当時の職は近衛師団長。最初は一橋廣元大将を旗頭にし、その後自らが出て内閣総理大臣に就任する。
- 一橋廣元:大将。陸軍参謀次長として荒木昌保のクーデターを黙認する見返りに護国軍事委員会委員長となるが荒木昌保によって”除去”される。
記載されている実在の人物
- 伊藤博文:安重根の暗殺未遂の後、16年間生存し、自伝的著書『北政』を著している。暗殺未遂の後大陸進出の前に朝鮮の統治を強化しなければならないと判断し、初代朝鮮総督として「朝鮮の内地化政策」を推進する。1925年(大正14年)で死亡(83歳没)。
- 山本五十六:回顧録『海風』を著している[2][3]。
- 東条英機:1941年(昭和16年)にクーデターを起こし執権政治を行った後、1950年代から1960年代の「昭和維新」で18年間の軍部統治を行う。1971年(昭和46年)で死亡(86歳没)。
- ウェンデル・ウィルキー:1940年(昭和15年)に米国の大統領に就任。
- ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ:1970年(昭和45年)5月12日に米国の大統領として、日本の議会で演説する。
- 三島由紀夫:1986年(昭和61年)度ノーベル文学賞を受賞する[4][5]。
- 香山光郎:朝鮮の大文豪。『土』、『端宗哀史』、『麻衣太子』などを、17世紀、モンゴルの仮想の王朝である航海時代連作に作り直す[6]。
- 岡本実:史実における朴正煕。朝鮮人出身では唯一陸軍大将職位に上がって、大将進級直後退役する[7]。
- ヴィクトル・グリシン:小説後半時点のソ連書記長。史実ではゴルバチョフと書記長の地位を争った、ブレジネフ派の人物。
- ^ 卜鉅一、「碑銘を求めて」上(《비명을 찾아서》 상)、ISBN 89-320-0979-1、文学と知性社(문학과지성사)、2010、p.9。
- ^ 卜鉅一、「碑銘を求めて」下(《비명을 찾아서》 하)、ISBN 89-320-0980-5、文学と知性社(문학과지성사)、2010、p. 52。
- ^ 現実では大東亜戦争(太平洋戦争)時、ブーゲンビル島上空で米陸軍機の攻撃により戦死している。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 70。
- ^ 現実では1970年(昭和45年)に市ヶ谷駐屯地で割腹自決を遂げた。
- ^ 「碑銘を探して」下、p. 226。
- ^ 「碑銘を探して」下、p. 47。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 10。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 43。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 11。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 25。
- ^ 「碑銘を探して」下、p. 41。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 251。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 69。
- ^ 「碑銘を探して」下、p. 139。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 89。
- ^ 「碑銘を探して」下、p. 242。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 248。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 77。
- ^ 「碑銘を探して」上、p. 250。
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