リチャード・シーマン リチャード・シーマンの概要

リチャード・シーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 16:34 UTC 版)

リチャード・シーマン
Richard Seaman
シーマン(1938年)
基本情報
国籍 イギリス
生年月日 (1913-02-04) 1913年2月4日
出身地 イングランドウェスト・サセックス州チチェスター
死没日 (1939-06-25) 1939年6月25日(26歳没)
死没地 ベルギーリエージュ州スパ
ヨーロッパ・ドライバーズ選手権での経歴
活動時期 1936年 - 1939年
所属 ダイムラー・ベンツ
出走回数 7
優勝回数 1
ポールポジション 1
ファステストラップ 2
シリーズ最高順位 4位 (1938年)

1937年から1939年にかけてメルセデス・ベンツチームのワークスドライバーとしてグランプリレース(ヨーロッパ・ドライバーズ選手権)を戦い、1939年ベルギーグランプリ英語版で事故死した。

ディック・シーマン(Dick Seaman)」の通称でも知られる。

経歴

ウェスト・サセックス州チチェスター近郊のアルディングボーンハウス英語版で、資産家のウィリアム・ジョン・ビーティ―・シーマンとリリアン・シーマンの息子として生まれた[W 1]

シーマンは子供時代はロンドンのナイツブリッジで育ち、運転手付きの自家用車(デイムラーサルーン)で学校に通学していたことから、自動車に興味を持つようになった[W 1]。1925年に一家はサフォーク州ロングメルフォード英語版にあるケントウェルホール英語版に転居した。1926年からラグビー校に通い、その後、ケンブリッジ大学トリニティカレッジに進学した[W 1]

トリニティカレッジに入る直前の1931年7月、シーマンはモルヴァン丘陵英語版で開催されたシェルズリー・ウォルシュ・スピードヒルクライム英語版で、レースに初めて出場した[W 2]。このレースでシーマンは2位に入り、優勝したのはアメリカの富豪の息子で、やはりケンブリッジの学生だったホイットニー・ストレイト英語版だった[W 2]。10月に入学したシーマンは、ストレイトの影響で飛行機の操縦を覚えたり自動車レースにのめり込んだりするようになり[W 2]、翌年には同大学の自動車クラブ英語版にも加入した[W 1]。1933年にストレイトがチームを設立し、シーマンはそのチームで走るようになる[W 1]

両親はシーマンが国会議員か弁護士になるよう望んでいたが、1934年、シーマンはレーシングドライバーになることを決意し、母リリアンに購入してもらったMGの車両でドライバーとしてのキャリアを本格的に開始する[1][W 2]。1935年、ストレイトがレースチームを畳もうとしていたことを機会として、父ウィリアムは息子の道楽を今度こそやめさせようとするが、持病から心不全を起こし、多くの財産を遺して死去した[W 2]。父は息子が相続できる年齢を27歳と設定していたことから[W 2]、財産は母によって管理され、シーマンのその後のレース活動は母を頼ることになる[2]

レーシングドライバー

1.5リッターのヴォワチュレットレースに参戦するようになったシーマンは、自身のイングリッシュ・レーシング・オートモビルズ(ERA)やドラージュフランス語版の車両をジュリオ・ランポーニ英語版に改造させて、レースに出場した[W 2]。同時に、ハイドパーク近くに実家が持っていた厩舎をガレージとし、ロフティー・イングランド英語版、ジョック・フィンレイソン(Jock Finlayson)という二人の優秀な整備士を雇った[W 3]

1936年にかけて、ヨーロッパで開催されている小排気量のジュニアクラスで腕を磨き、並行してイギリスにおいても小さなレースに出場して、それぞれのレースで優勝を重ねた[W 1]。この時期にトリニティカレッジに入ったプリンス・ビラとは、友人でありライバルとなる。

1936年・メルセデスチームのオーディション

もしメルセデスのために走ることになったら、二度と他のチームのためには走らないだろう(If I ever get to drive for Mercedes, I shall never drive for anybody else.)[W 1]

—リチャード・シーマン(1936年夏)

シーマンはステップアップを夢見るが、当時の自動車レースの最高峰であるヨーロッパ・ドライバーズ選手権をはじめとするトップクラスのレースではドイツのメルセデス・ベンツとアウトウニオンが圧倒的に強く、イタリア、フランスのチームでも歯が立たず、さらに弱体のイギリス車ではこれ以上のステップアップは望みようがなかった[W 2]

1936年11月、メルセデスチームを率いてグランプリレースを戦っていたアルフレート・ノイバウアーは、ドライバーの補強を行うための大規模なオーディションをドイツ・ニュルブルクリンクで開催した[3][4]。シーマンも招待され、友人のクリスティアン・カウツとともにこのオーディションに参加し、ニュルブルクリンク(北コース)で好タイムを出したことでノイバウアーに見出され、正式な加入オファーが提示された[3][4][1][W 3]

当時、イギリスとナチス・ドイツとの間では緊張が高まっていたことから、シーマンの母は同チームへの加入に反対したが、シーマンはそれを押し切り、1937年2月にメルセデスチームと契約を結んだ[W 1]。3月にはモンツァでもテストが行われ、シーマンは正式にリザーブドライバーとなる[W 3]。この際、イギリス人のシーマンを加入させることについて、メルセデスチームはアドルフ・ヒトラーの承認を必要とした[W 3]

1937年・デビューと負傷

メルセデスチームにおけるシーマンは、5月の非選手権のトリポリグランプリでデビューを飾り、このレースはトラブルによりリタイアに終わったものの、途中、チームメイトのヘルマン・ラングの後ろ、エースであるルドルフ・カラツィオラの前の2位で走行し、レギュラードライバーと遜色ない速さで走れることを証明してみせた[W 1]。7月初めにアメリカ合衆国で開催されたヴァンダービルト杯では、英語を母国語とすることから遠征するドライバーの一人に抜擢されて参戦し[W 3]、このレースでアウトウニオンベルント・ローゼマイヤーに次ぐ2位表彰台に立ってみせた[W 1]

しかし、肝心のヨーロッパ・ドライバーズ選手権のデビューは順調なものとはいかなかった。7月に開催されたドイツグランプリ英語版でデビューしたが、このレースでシーマンはアウトウニオンのエルンスト・フォン・デリウス英語版の死亡事故の当事者となる[W 1]。シーマンに対してオーバーテイクを仕掛けたデリウスはコントロールを失ってコースを塞ぎ、シーマンはそれに追突する直前に車外に投げ出されたため、重傷こそ負わなかったものの、鼻、腕、手首、親指、胸といった複数を骨折する怪我を負ってしまう[W 1][W 2]。この負傷が響いて、シーマンは続くモナコグランプリ英語版スイスグランプリ英語版の欠場を余儀なくされた。

9月のイタリアグランプリ英語版で復帰し、このレースで4位入賞を果たした。同月の非選手権のマサリクグランプリ英語版でもチームメイトに次ぐ成績を残し[W 1]、復調を印象付けることとなる。

1938年・最良のシーズン

1938年はシーマンにとって最良のシーズンとなり、7月のドイツグランプリ英語版では、チームメイトのマンフレート・フォン・ブラウヒッチュとの争いを制してグランプリ初優勝を遂げる[W 1]

このレースはチームにとっての母国グランプリであることから、ノイバウアーは必勝を期し、ドライバーたちにコース上でチームメイト間で争うことを禁じるチームオーダーを出していた[W 1]。シーマンはレース中盤までにファステストラップを記録するほどの速さを示していたものの、わずかに先行して首位を走るブラウヒッチュに仕掛けるわけにはいかず、ブラウヒッチュの直後にぴったりと張り付いてレースを進め、ブラウヒッチュと同時にピットインした[5]。ブラウヒッチュからシーマンが近すぎると苦情を受けたノイバウアーは、チームの1-2フィニッシュを達成するため、シーマンにはもう少し離れて走るよう改めて注意を与えた[5][注釈 1]。しかし、そんな話をしていたところ、ブラウヒッチュの車両が火災に見舞われるというアクシデントがあったことから、問題なくピットアウトしたシーマンが逆転することになり、その点では運が味方した勝利だった[W 1]

この優勝はナチス政権下のドイツグランプリでイギリス人ドライバーが優勝したものとして有名になり、シーマンはこの結果に気を良くしたアドルフ・ヒトラーのお気に入りのドライバーの一人となる。続くスイスグランプリ英語版では、豪雨となったレースで「レーゲンマイスター」(雨の名手)のカラツィオラに次ぐ2位となって再び実力を示した[W 1]。このレースはシーマンにとって生涯最高のドライビングだったと評す者もいる。

1939年・死亡事故

ベルギーグランプリのシーマンと、事故で大破したW154

この年はシーマンにとっては始まりが遅くなり、5月に開催された非選手権レースのアイフェルレンネンが初戦となった[W 1]。そして、6月末、ヨーロッパ選手権の初戦であるベルギーグランプリ英語版を迎えた[W 1]

スパ・フランコルシャンを舞台とするこのレースはスタート時は曇天だったが、レース中は断続的に続く大雨に見舞われた[4]。ラングと首位を争っていたシーマンは、22周目のクラブハウスコーナーを高速で回ろうとして横滑りし[注釈 2]、コース外の木に車両側部をぶつける形で時速200kmで激しく衝突した[4][W 1]。この時の衝撃で燃料系統が破損し、車外にガソリンが漏れて発火した[4]。右腕が折れたシーマンは車から脱出しようにもステアリングをうまく外せず、やがて気を失い、周囲の者たちも激しい炎により救助に手間取ることとなる[4][W 1]。最終的に勇敢なベルギー人の観客たちが火中からシーマンを救い出したが[注釈 3]、全身のおよそ60%に火傷を負ったことは致命傷となり、シーマンは事故から6時間後の6月25日夜に死去した[W 1]。26歳の早すぎる死だった[1][W 1]

23周目、ラ・ソースのヘアピンカーブのすぐ手前で不幸なできごとが発生した[注釈 4]
シーマンは滑りやすい危険なカーブにオーバースピードで突っ込んだ。車輪が走路の縁の路面のゆるんだところに乗ってスキッドを始め、すごい勢いで後ろから樹にぶち当たり、それから横向きになってまた樹に当たった。車は四輪を地面につけたままで停止した。衝突のショックで燃料パイプが破れ、燃料が灼熱した排気管の上に流れ出した。数秒後には、車体は炎に包まれていた。
恐らくシーマンは逃げ出そうとしたのだろう。しかし、後でわかったところでは、彼は腎臓にひどい負傷をし、右腕の骨も折れていた。また、彼はショックで意識を失い、空気が揺れ動くのも、ひどい熱にも気がつかなかったものとみられる。[6]

—『カラツィオラ自伝』中の「シーマンの死」より

病院で意識を回復したシーマンは、死の床に見舞いに訪れたルドルフ・ウーレンハウトに「(雨の中)速く走りすぎた。完全に私のミスだった。すまない」と詫びたという[W 2]。また、妻のエリカに対しては「こんな脅かしててすまない。今晩、映画館に連れていけなくなった」と冗談を言い、自然に陽気に話そうと努めていた[6][4]

シーマンは「シルバーアロー」時代のメルセデスチームにとって、唯一のレース中の死者となった。シーマンの葬儀はその死の5日後の6月30日にロンドンで営まれ、その遺体はロンドンのパットニー・ヴェール墓地英語版に葬られた[4][W 3]

死後

シーマンはヘンリー・シーグレーブと並んで戦前に最も活躍したイギリス人ドライバーとして讃えられることとなる[W 5]。また、メルセデス・ベンツのワークスドライバーとして活躍したイギリス人として、後のスターリング・モスルイス・ハミルトンとともに名を挙げられるようになる[W 6][W 5][W 7]

レース戦績

AIACRヨーロッパ選手権

所属チーム 車両 1 2 3 4 5 EDC ポイント
1936 スクーデリア・トリノ マセラティ・V8RI MON GER
Ret
SUI ITA 28位 31
1937 ダイムラー・ベンツ AG メルセデス・ベンツ・W125 BEL GER
Ret
MON
WD
SUI ITA
4
15位 34
1938 メルセデス・ベンツ・W154 FRA GER
1
SUI
2
ITA
Ret
4位 18
1939 BEL
Ret
FRA GER SUI
(25位)

(29)

注釈

  1. ^ 当時はタイヤを外すのも大きな労力を要し、ピットインで1分ほど停車していたため、こうしたやり取りをしている時間があった。
  2. ^ クラブハウスコーナーはブランシモンとラ・ソースの間にかつて存在していた高速コーナーで[W 4]、後にバスストップシケインが設置された。
  3. ^ 救助にあたった者は、ベルギー人であるという点は共通しているが、資料によって「軍人」であったり「サーキットのオフィシャル」であったりして、一定しない。
  4. ^ 周回数についての記述は誤りで、レースの記録上、シーマンは22周目にクラッシュしている。
  5. ^ エリカの父フランツ・ヨーゼフは、1926年ダイムラー・ベンツ設立時の監査役の一人であり、ダイムラー・ベンツの関係者でもある[8]
  6. ^ 当時の映像から、この会話があったかは定かでないが、火災の直後にノイバウアーがシーマンを急き立ててピットアウトさせていることを確認できる。

出典

  1. ^ a b c d e MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.55
  2. ^ a b c d e f MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「15 1938年──大戦の危機」 pp.163–172
  3. ^ a b c d e MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「14 ナチズムの横暴」 pp.147–162
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「17 シーマン最後のレース」 pp.186–200
  5. ^ a b c d e カラツィオラ自伝(高斎1969)、「21 コッパ・アチェルボ」 pp.129–138
  6. ^ a b カラツィオラ自伝(高斎1969)、「22 シーマンの死」 pp.139–147
  7. ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「16 メルセデスの活躍」 pp.173–185
  8. ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、 p.49
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae Biography: John Richard Beattie Seaman (1913 - 1939)” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年6月25日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t The master race” (英語). The Guardian (2002年9月1日). 2021年6月28日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l Richard Williams (2020年4月). “Dick Seaman: England’s tainted hero” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
  4. ^ Leif Snellman (2000年7月). “The 1939 Championship mystery” (英語). Autosport.com (8W). 2021年6月28日閲覧。
  5. ^ a b Sam Wollaston (2020年3月13日). “A Race With Love and Death by Richard Williams review – Britain's first great grand prix driver” (英語). The Guardian. 2021年6月28日閲覧。
  6. ^ Richard Williams (2012年9月28日). “Lewis Hamilton's move to Mercedes renews links with British drivers” (英語). The Guardian. 2021年6月28日閲覧。
  7. ^ Graham Moggipaldi (2012年12月14日). “Richard Seaman – The Other British Great in a Silver Arrow” (英語). Badger GP. 2023年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。


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