モンゴルの高麗侵攻 モンゴルの高麗侵攻の概要

モンゴルの高麗侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 21:11 UTC 版)

モンゴルの高麗侵攻
1231年 - 1273年
(1231, 1232, 1235–1239, 1251, 1254, 1255, 1257)
場所朝鮮半島
結果 高麗1259年に降伏。三別抄の乱を経て、1273年までに高麗全域を併合。
衝突した勢力
高麗 モンゴル帝国
指揮官
高宗
崔瑀
崔沆
崔竩
朴犀朝鮮語版
金允侯
洪福源(捕虜)(-1232)
李龍祥
王温朝鮮語版中国語版
林衍
金通精
オゴタイ
グユク
モンケ
クビライ
サリクタイ 
アムカン
ジャライルタイ
洪福源 (1232-)
洪茶丘
金方慶
王諶
ヒンドゥ

侵攻までの経緯

高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹、後遼と呼ばれる)が満洲から高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている[2]。その後の1220年から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)[3]1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きたためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カン西夏への遠征中であり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイカアンに即位した後に行われた。

12世紀後半の1170年には高麗で文臣の支配に対して武臣(軍人)によるクーデターが起きて、以降1270年まで武臣政権と呼ばれる執政体制が敷かれた。1196年に崔忠献(チェ・チュンホン)が政権を握ってからは「牛峰崔氏」一族が権力を握った。モンゴルによる高麗侵攻当時、崔氏2代目の崔瑀(チェ・ウ)が政権を運営していた。

第一次侵攻

オゴデイ・カアン

1231年オゴデイは高麗に対して、先の使者殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書を送る[4][5]。これを機にモンゴルによる高麗侵攻が始まる。

開京陥落と降伏

サリクタイ・コルチに率いられたモンゴル軍は、鴨緑江を越え、瞬時に国境の義州を陥落させた。このとき高麗の将軍の洪福源(ホン・ボグォン)は1,500戸を引き連れてモンゴルに降伏した。高麗軍は安州および亀城で迎撃したが、モンゴル軍は安州を落とした後、亀城を包囲したが落とせなかったため、サリクタイはこれを無視して一挙に首都の開京の攻略に成功した。首都の陥落を受け、高麗朝廷はモンゴルの侵攻に抵抗できないことを悟り、講和を求めることとなる。これに対しモンゴルは、1万枚の毛皮、2万頭の馬、100万人分の軍服および大量の奴隷など大量の貢物を要求した。

サリクタイは1232年春、主力軍を北に撤退させたが、高麗が講和条件を守るかどうか監視させるためもあり、開城その他の都市に72人の「ダルガチ」(統治官)を配置した[6]

高麗の反撃と江華島への遷都

しかし同1232年、崔瑀はモンゴルが残したダルガチ72人を全員殺害した。さらに国王高宗と開京の民を引き連れて、京畿道沖にある江華島に朝廷を移し、モンゴルの脅威に備えて防備を固めた。モンゴル軍は陸戦には長けているが、海戦には不向きと判断したためである。崔瑀は国内の船を総動員して兵や軍事物資を江華島へ運搬した。また平民にも城や山砦、沖合の島などへの移動命令が出されたが、実現不可能な空文に過ぎなかった。江華島には強固な砦が築かれ、対岸の半島本土側にも小規模な城壁が施され、文殊山(ムンスサン、慶尚北道)には二重壁が建設された。この結果、農村の休耕や国土の荒廃を招くことになる。

第二次侵攻

モンゴル側はこれらの朝廷移転やダルガチの殺害という明確な敵対行為に対して、2度目の遠征を行った。モンゴル軍は、第1次侵攻で降伏した洪福源に兵を率いさせ、半島北部を制圧。続いて半島南部へ到達したが、陸地からわずかの距離しかない江華島を制圧することができず、光州で反撃された。この間、サリクタイは龍仁附近で行われた処仁城(チョインソン)の戦いで流れ矢に当たり戦死し、モンゴルは撤退を余儀なくされた。


  1. ^ 回数の数え方は研究者によって異なり、7度や9度と言われることもある。
  2. ^ 杉山1996、107頁。村井1999、100頁。
  3. ^ 『元史高麗伝』「[太祖]十四年九月,皇太弟、国王及元帥合臣、副元帥札剌等各以書遣宣差大使慶都忽思等十人趣其入貢,尋以方物進。十五年九月(中略)以皇太弟、国王書趣之,仍進方物。十八年八月,宣差山朮等十二人復以皇太弟、国王書趣其貢献。」
  4. ^ 『元史』巻2 太宗本紀「[太宗三年秋八月]是月、以高麗殺使者、命撒禮塔率師討之、取四十餘城。」
  5. ^ 『元史』巻208 高麗伝「[太祖十九年]十二月、又使焉、盜殺之于途、自是連七歳絶信使矣。 太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戸、旁近州郡亦有來師者。」
  6. ^ 『元史』巻208 高麗伝「太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戶、旁近州郡亦有來師者。撒禮塔即與福源攻未附州郡、又使阿兒禿福源抵王京、招其主王皞遣其弟懷安公王侹請和、許之。置京、府、縣達魯花赤七十二人監之、遂班師。」
  7. ^ 世界全史、312頁。
  8. ^ 村井1999、14頁。
  9. ^ 『高麗史』巻129 列伝43 叛逆3 崔忠献「[高宗]三十九年、李峴奉使如蒙古、沆謂峴曰:『彼若問出陸、宜荅以今年六月。(中略)帝乃留峴、遂遣多可土等密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐…』」
  10. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗三十九年秋七月戊戌(十六日)条「戊戌、蒙古使多可阿土等三十七人來帝密勅多可等曰:「汝到彼國、王出迎于陸、則雖百姓未出、猶可也。不然則待、汝來當發兵致討。」多可等至王、遣新安公佺、出迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。」/『高麗史節要』巻17 高宗三十九年七月条「秋七月、蒙古遣多可阿土等三十七人、來審出陸之状。初李峴之如蒙古也。崔沆謂曰『若詰出陸、宜荅以今年六月』。乃出峴未至蒙古、東亰路官人阿母侃通事洪福源等請發兵伐之。帝已許之及峴至。帝問『爾國出陸否』。對如沆言。帝又問『留爾等別遣使審視。否則如何』。對曰『臣於正月發程、已於昇天府白馬山營宮室城郭。臣敢妄對』。對帝乃留峴。遂遣多可土等来密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐』。峴書状官張鎰随多可能来密知之具白王。王以問沆對曰『大駕不宜輕出江』。公卿皆希沆意執不可。王從之遣新安公佺、出江迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。時人謂『沆以淺智誤國大事、蒙兵必至矣』。」
  11. ^ 『高麗史』
  12. ^ 村井1999、105頁。
  13. ^ 関周一 編『日朝関係史』吉川弘文館、2017年2月7日、103-104頁。ISBN 978-4642083089 
  14. ^ 『元史』巻3 憲宗本紀 憲宗三年癸丑春正月条「三年癸丑春正月、汪田哥修治利州、且屯田、蜀人莫敢侵軼。帝獵于怯蹇叉罕之地。諸王也古以怨襲諸王塔剌兒營。帝遂會諸王于斡難河北、賜予甚厚。罷也古征高麗兵、以札剌兒帶為征東元帥。遣必闍別兒哥括斡羅思戸口。」
  15. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗四十一年条「是歳、蒙兵所虜男女、無慮二十萬六千八百餘人、殺戮者不可勝計。所經州郡、皆爲煨燼、自有蒙兵之亂、未有甚於此也。」/同高宗四十二年夏四月条「是月道路始通。兵荒以來、骸骨蔽野、被虜人民逃入京城者、絡繹不絶。都兵馬使、日給米一升救之然死者無筭」 村井1999、105頁。
  16. ^ 村井1999、93-94頁。
  17. ^ 村井1999、106頁。
  18. ^ 『元史』巻4 世祖本紀 中統元年6月 条「高麗國王王倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即來賀即位、以國王封冊、王印及虎符賜之。」/『元史』巻208 高麗伝「(中統元年)六月、倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即入賀即位、以國王封冊、王印及虎符 賜之。是月、又下詔撫諭之。」、杉山1996、112-113頁。
  19. ^ 『元史高麗伝』
  20. ^ 杉山1996、113-117頁。
  21. ^ 元史高麗伝。杉山1996、114-115頁。
  22. ^ 杉山1996、115-116頁。
  23. ^ 村井1999、111-114頁。
  24. ^ 程尼娜『元代朝鮮半島征東行省研究』
  25. ^ 『征東行省新論』
  26. ^ 元史』巻108 表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)
  27. ^ 元史』巻8 世祖本紀5「[至元11年5月]丙申(1274年6月26日)、以皇女忽都魯堅迷失下嫁高麗世子王諶。」/『元史』巻109 表4 諸公主表「高麗公主位:齊國大長公主忽都魯堅迷失、世祖之女、適高麗王諶、即王昛也。」
  28. ^ 『元史』巻91 志41上 百官志7「征東等処行中書省。至元二十年、以征日本国、命高麗王置省、典軍興之務、師還而罷。大特が三年、復立行省、以中国之法治之。既而王言其非便、詔罷行省、従其俗。至治元年復置、以高麗王兼領丞相、得自奏選属官、治瀋陽、統有二府、一司、五道。」
  29. ^ 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』
  30. ^ a b c d e f 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、35頁、ISSN 1346-3810 
  31. ^ 森平雅彦『モンゴル覇権下の高麗―帝国秩序と王国の対応』名古屋大学出版会、2013年11月30日、213頁。ISBN 978-4815807535 
  32. ^ 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、36頁、ISSN 1346-3810 





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