ビアフラ共和国 ナイジェリアからの独立

ビアフラ共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 00:44 UTC 版)

ナイジェリアからの独立

1966年に、ナイジェリア軍部によるクーデター未遂が勃発、事態を収拾したナイジェリア軍のイロンシ少将は北部と東部と西部の3州で州ごとに首相を持っていた連邦制を廃止して中央集権化を図るため、地方を12州に分割しようとした。しかし、これがイボ族による支配を図っているとみられたためにイロンシは殺害され、北部や西部に移住していたイボへの虐殺が起こった。この際に権力を握ったゴウォン中佐はイボへの迫害を抑えることなく、連邦制は復活させたが州の細分化を進めようとした。

1967年5月30日軍事政権に反発するイボ族を中心とした東部州の軍政官であったチュクエメカ・オジュク中佐が独立を宣言し、ビアフラ共和国を建国した。最終的にビアフラを承認した国家はタンザニアガボンなど4カ国にとどまり、他のアフリカ諸国はアフリカ統一機構憲章の「領土保全」を根拠にナイジェリアを支持した[2]

ビアフラ戦争

ナイジェリア政府は直ちにビアフラを経済封鎖し、7月6日ビアフラ戦争へと突入した。ビアフラ軍は一時は西部に攻め入ることもあったが、のち防戦に転じ、首都エヌグからアバウムアヒアへと移転を強いられ、1969年にはオウェリに移された。1970年、臨時首都オウェリが陥落してビアフラ共和国は完全に滅亡し、ビアフラ戦争はここに終結した。

戦争末期に内陸部へ封じ込められたビアフラでは200万人といわれる餓死者を出し、「ビアフラの悲劇」と呼ばれて世界的に注目された。同共和国の滅亡後、国外に脱出した民族派などがビアフラ国亡命政府を樹立し、失われた祖国を再興させるべく現在も活動を続けている。

ビアフラ共和国を承認した国家


  1. ^ K・ヴォネガット『ヴォネガット、大いに語る』早川書房ハヤカワ文庫〉、2008年、221頁。 
  2. ^ 「ビアフラ紛争大詰め ゲリラ戦に移る?」『中國新聞』昭和45年1月12日 15面
  3. ^ 月刊ラジオパラダイス 1989年8月号特集「ニッポン放送35周年グラフィティ」(15ページ)


「ビアフラ共和国」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ビアフラ共和国」の関連用語

ビアフラ共和国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ビアフラ共和国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのビアフラ共和国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS