スカラ座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/09 02:24 UTC 版)
ミラノ・スカラ座 | |
---|---|
情報 | |
種別 | 歌劇場 |
開館 | 1778年8月3日 |
所在地 | イタリア ミラノ |
外部リンク | 公式HP |
歴史
現在の建物は2代目のもので、初代の歴史的建築物のテアトロ・レージョ・ドゥカーレは1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失した。劇場のバルコニー席(palchi)を持つ裕福な90人のミラノ市民がオーストリア大公フェルディナントに新しい劇場の建設と、新劇場完成までの仮劇場の提供を依頼した(当時ミラノはオーストリアの領地であった)。
新古典主義の建築家ジュゼッペ・ピエルマリーニが最初の設計案を作ったが、オーストリア長官のフィルミアン伯爵はこれを却下した。1776年、第2案が女帝マリア・テレジアにより承認された。
新劇場は以前サンタ・マリア・アッラ・スカラ教会のあった場所に建設され、ここから劇場名がとられた。教会は取り壊され、ピエトロ・マルリアーニ、ピエトロ・ノゼッティ、アントニオおよびジュゼッペ・フェが2年を費やして劇場を完成した。新劇場は「公国立スカラ新劇場(イタリア語: Nuovo Regio Ducal Teatro alla Scala)」の名で1778年8月3日に落成し、アントニオ・サリエリ作の『見出されたエウローパ』でこけら落としを行った。
ハプスブルク帝国時代に創立されたこともあり(他のイタリアの歌劇場と比べて)ドイツオペラへの適応力も伝統的に高く、フルトヴェングラー指揮の『ニーベルングの指環』などの歴史的録音も残している。1950年代前半のカラヤンはドイツ圏の歌劇場に足場がなかったこともあり、同歌劇場ドイツオペラ主任として『ドン・ジョヴァンニ』『ばらの騎士』『タンホイザー』などを指揮し、自らのオペラ活動の中枢としていた。上記作品を含む多くの演目で、彼の戦後の初指揮は同歌劇場で行われている。
設備など
建設費はバルコニー席の売上げで賄われ、各ボックスの持ち主は自席を豪華に飾り立て、スタンダールら観客に強い印象を与えた。劇場はほどなく「スカラ座」の名で知られるようになり、高貴で裕福なミラノ市民の絶好の社交場となった。当時の慣習では、平土間席(プラテア)には座席が無く、観客は出し物を立ったまま鑑賞した。オーケストラ・ピットの構造はまだ導入されておらず、オーケストラは客席から丸見えであった。
スカラ座は一貫して、バルコニー席の階上に余り裕福でない人でも観劇できるようなガレリア席を設けている。これはロッジョーネ(天井桟敷)と呼ばれる。ロッジョーネへの入口は、通常の正面入口とは別に建物横に造られている。
スカラ座の当初の照明は油のランプで、舞台用の84基およびその他劇場内のための数千基が設置されていた。そのため何百個もの防火用水入りバケツを多数の部屋一杯に配置していた。その後油ランプはガス灯に替わり、1883年には電灯に交換された。当初の構造は1907年に改修されて今日の配置と同様になった。
第二次世界大戦中は、ミラノがイタリア社会共和国(サロ政権)下に置かれていた1943年に受けた連合国軍機による爆撃で大きく破壊されたがその後修復され、ヨーロッパ戦線における戦闘が終結してからわずか1年後の1946年5月11日に、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮による演奏会で再開した。
2002年1月19日から2004年11月までの間、スイス・ティチーノ州の建築家マリオ・ボッタによる大改修プロジェクトのため閉鎖された。その間オペラ座は市の中心部を遠く離れた新しいアルチンボルディ劇場に移った。改修に対して伝統派から歴史的なディテールが失われる虞があるという異論を招いた。しかし、オペラ座当局は内部構造およびホール内部の分厚い赤絨毯を撤去した際の音響の改善効果に感心しているといわれる。舞台は全面的に造り替えられ、拡大された舞台裏はより多くの舞台装置を収容でき、従来より多数の公演に対応できるようになった。
客席にはモニタが設置され、観客はオペラのせりふを英語、フランス語およびイタリア語で読むことが出来る。再開公演のチケットは2000ユーロで発売された。現在スカラ座にはロビーから入場可能な博物館が付属し、そこでは絵画、草稿、彫像、衣裳やその他オペラに関係する文書など、特別な収蔵品を保有し公開されている。
- ^ クリスティーナ・G・キアレッリ『マリア・カラス 情熱の伝説』吉岡芳子訳、新潮社、1987年
- ^ 映画「新世紀パリオペラ座」プログラム16ページ
- ^ 民主音楽協会WEBサイトより
- ^ 日本舞台振興財団WEBサイト-スカラ座から佐々木忠次への追悼の辞
固有名詞の分類
- スカラ座のページへのリンク