サモ・ハン・キンポー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 22:19 UTC 版)
サモ・ハン・キンポー | |||||||||
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2024年4月14日、第42回香港電影金像奨にて | |||||||||
基本情報 | |||||||||
繁体字 | 洪金寶 | ||||||||
簡体字 | 洪金宝 | ||||||||
漢語拼音 | Hóng Jīnbǎo | ||||||||
粤拼 | Hung4 Gam1bou2 | ||||||||
生誕 |
1952年1月7日(72歳) イギリス領香港 | ||||||||
別名 | 元龍、大哥大 | ||||||||
英語名 | Sammo Hung | ||||||||
職業 | 俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー | ||||||||
活動期間 | 1961年 - | ||||||||
配偶者 | 曹恩玉、ジョイス・コウ (高麗虹、1995年 - ) | ||||||||
子供 |
ティミー・ハン(洪天明) ジミー・ハン(洪天祥) サミー・ハン(洪天照) ステファニー・ハン(洪煦楡) | ||||||||
公式サイト | http://www.sammohung.com/ | ||||||||
受賞
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サモ・ハン・キンポー 洪金寶 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 洪金寶 |
簡体字: | 洪金宝 |
拼音: |
Hóng Jīnbǎo(北京語) Hung4 Gam1bou2(広東語) |
発音転記: |
ホン・ジンバオ ハン・ガンボー |
英語名: | Sammo Hung |
愛称は「大大哥」(タイタイコー)で大大兄貴の意である。
1998年、ハリウッド進出を機に、英名をサモ・ハン(Sammo Hung)と短く変更した。
経歴
出生〜子役時代
サモ・ハンは、香港の脚本家兼監督の子として生まれる。両親が共働きのため、彼は祖父母に預けられ世話されていたが、とても手に負えないやんちゃな子供で、いつもいたずらやケンカばかりをしていたという。
10歳の頃に、祖母の銭似鶯(せんじおう)に連れられ、于占元(うせんげん)中国戯劇学院に連れて行かれる。京劇の子役たちの訓練を見学し、興味を持ち、入学を決意する[注釈 1]。
そして8年間にわたって、サモは京劇の基礎を叩き込まれる。ここで、朱元龍なる芸名をもらい、優秀であった彼は「七小福」のリーダーに選ばれ、ナイト・クラブや舞台などの出演をこなしていく。また、この時期に数本の映画にも出演した。
映画出演-スタントマン、武術指導師時代
サモの映画デビュー自体は中国戯劇学院に入学直後、10歳のときに出演した『愛的教育』だった。続いて『大小黄天覇』、『公主與七小侠』、『人之初』などでスタントや子役として出演した。
その後、8年間の勉学の後に戯劇学院を卒業したサモは、スタントマンの仕事に興味を持ち、学院で知り合った先輩達の伝手で映画界で仕事をするようになった[注釈 2]。
彼は脇役出演をこなしながら、韓英傑(かんえいけつ)、梁少松(りょうしょうしょう)、徐二牛(じょじぎゅう)らの指導のもと、武術指導の仕事を経験していく。そして、1970年にゴールデン・ハーベスト(嘉禾電影有限公司)に武術指導師としての契約を結ぶ。武術指導師としては、「七小福」時代の芸名である朱元龍を名乗り、『奪命金瞼』やキン・フー監督作品『迎春閣之風波』などでの武術指導が高く評価された。また、1973年には、尊敬するブルース・リーに声をかけられ『燃えよドラゴン』で共演を果たす。
功夫映画衰退期〜俳優、監督、製作としての成功
しかし、その活躍の場の功夫映画も、ブルース・リーの死とともにブームは衰退の道をたどる。サモはそんな中でいくつかの映画に武術指導として参加していた。ゴールデン・ハーベスト入社以来の師匠とも言われていた黄楓(こうふう)から、『少林寺怒りの鉄拳』の監督として映画を撮るチャンスを与えられる。この映画がきっかけで、ブルース・リーの未完成作品『死亡遊戯』の武術指導をゴールデン・ハーベスト社より依頼される。
その後サモは、尊敬するブルース・リーへのオマージュとして功夫コメディー『燃えよデブゴン』を製作する。体型からは想像もつかないキレのあるアクションを繰り出し、当時コメディー映画が市場を占めていた香港映画界に、新たな分野を打ち出すことに成功した。そして、1983年には『ピックポケット!』で第2回香港電影金像奨主演男優賞を受賞する。
サモは盟友のジャッキー・チェンと共に、時代のニーズを先読みし、新時代のアクションを確立していった。誰もがなしえなかった、体を張った危険なスタントやアクションを次々と提案し、それをこなしていった。以降、サモは様々なアクション、コメディなどのヒット作品を生み出していった。
1980年代半ばに入ると、彼は中国の古くから伝わる妖怪、キョンシーを題材にし、新たに香港映画界にホラー&キョンシー・ブームを生み出し、また豪華な俳優陣を迎えたオールスター・キャスト作品を打ち出した。その最初の作品が『五福星』である。当時、アジアでトップスターになっていたジャッキーも参加し、興行的に大ヒットした。1988年には『七小福』で第8回香港電影金奨主演男優賞を受賞するなど役者としても評価されるようになる。
世代交代-ハーベストとの決別
しかし、1990年代に入ると、サモも新旧交代を余儀なくされる。これまでもユン・ピョウや、 梁家仁(レオン・カーヤン)など、後輩の育成にも力を注いできたサモであったが、ワイヤーを使った派手なアクションや、海外の複雑なドラマ性を重視し始める時代が到来し、彼の作品は興行的に成功しなくなる。挙句の果てには、公開を見送られることもあるなど、サモは会社ともめることが多くなった。そして、長年の付き合いであったゴールデン・ハーベストと決別する。
それ以降、サモは様々な映画会社の作品に出演、または監督をすることになる。しかし、この時期のどの作品も大衆の支持を得られず、満足のいく収益も得られなかった。また彼はこの頃に、愛人のジョイス・コウと結婚するために、長年連れ添った妻・曹恩玉と離婚していた。
それでもサモは変わることなく、映画に出演し続けた。知人や友人の作品にカメオ出演したり、自らの作品も時代を見据えて、アクション場面を控えたドラマ性の高いものや、大人のコメディや子供向けの作品など、新たな分野にチャレンジしようとしていた。時にはアクションをしない俳優として出演した。
新たなるブーム-海外進出
1990年代末期にハリウッドで功夫ブームが起きた。1999年の『マトリックス』などの作品には、ワイヤー・アクションや功夫など、香港で作られたアクションの技法が取り入れられた。ジャッキーやジェット・リーなどのアクション俳優をはじめ、ユエン・ウーピンやユン・ケイなどの武術指導師、ジョン・ウーなどの監督陣もハリウッドに招かれ、香港映画が世界市場を相手に活躍していた。
サモもアメリカに招かれ、CBSで1998年から2000年に放送された米国連続テレビドラマ『LA大捜査線/マーシャル・ロー』に主演として出演した。作品は全米で絶賛され、第2シーズンまで放映された。そして、ジャッキー・チェン出演作品『80デイズ』にカメオ出演を果たすなど、活躍の場を世界に広げている。
その後の活躍
アクション俳優としては、2005年の『SPL/狼よ静かに死ね』で悪役として、ドニー・イェンと激しい戦闘シーンを演じ、その武術は全く衰えを見せていない。役者としては、主演作も近年に入って復活しており、『奪師』、『カンフーシェフ』では貫禄のある役柄を演じている。また、『特警飛龍』の署長役、『少林僧兵』の師父(師匠)役など、人を統率する役がらも増えてきている。そして武術指導としては、2009年の第28回香港電影金像獎では、『イップ・マン 序章』で最優秀アクション設計賞を受賞。
2016年、第18回ウディネ・ファーイースト映画祭でライフ・レジェンド・マルベリー賞を受賞[1]。
芸能活動
七小福
「七小福」は香港中国戲劇研究學院における子役エリート集団に冠された名称。のちに活躍する元楼(2012年現:成龍、ジャッキー・チェン)、元彪(ユン・ピョウ)、元華(ユン・ワー)、元奎(コリー・ユエン)、元彬(ユン・ブン)、元武(ユン・モウ)、元徳(ユン・タク)、元秋(ユン・チウ)などが在籍していた。
サモは年長であったため、周囲から大師兄(大兄弟子)と慕われていた。当時は、体格はよかったが、とくに太ってはいなかった。現在の彼を象徴する大きな体格は、この中国戯劇学院生時代に、かかとを骨折し、入院中に暴飲暴食をしたのが原因だといわれている。ジャッキーの自伝に拠れば、兄貴肌で下の者の面倒見は良かったが、独裁的でわがままな所があったためジャッキー本人とは衝突が絶えなかった。これは、ジャッキーの父親と京劇学校の校長干元占とは国民党時代の戦友であったため、学校内でジャッキーが特別扱いを受けていた反発があったとも言われる[注釈 3]。ユン・ピョウのへそくりをめぐりジャッキーとサモが喧嘩になったときは「お互いのパンチもキックも見えないほど速くて、見る見る両者の顔が腫れていった」と語られるほど2人は喧嘩でも腕自慢であった。
ジャッキーからは互いに還暦を迎え、大多数の共演から盟友と呼べる間柄になった2017年時点では「自分が主人公で相棒を持った作品がたくさんあるが、僕一人だけでは成功できず、彼らのおかげである」と語っており、その一人にサモの名前を挙げるなど認められている節もある[注釈 4]。
アクション俳優
太った体型だが動きは非常に軽やかであり、『燃えよデブゴン』ではバク転を連続で披露している。
『福星』シリーズ
香港オールスター映画『福星』シリーズはジャッキー・チェン主演ではなくサモ・ハンの主演・監督の作品である。『五福星』や『香港発活劇エクスプレス 大福星』は香港・日本でヒットした。
シリーズ作品には『五福星』(1983年)、『大福星』(1985年)、『七福星』(1985年)、『十福星』(1986年)、『福星闖江湖』(日本未公開、1989年)[注釈 5]、『五福星撞鬼』(日本未公開、1992年)、『運財五福星』(日本未公開、1996年)がある。
日本における人気
日本ではジャッキー・チェンの映画によく出ている俳優という程度の認識がほとんどであった。しかし、ブルース・リーへのオマージュ映画『燃えよデブゴン』(1978年)の公開を機に「動けるデブ」として有名になり、さらに映画『霊幻道士』シリーズで製作を務める頃には、日本でも海外人気俳優の一人として認知されるようになった。
『燃えよデブゴン』のヒットにより、一時期、日本で放送されたサモ・ハン主演の作品にサブタイトルとして、『燃えよデブゴン』が付けられていた。また、映画『無問題』ではお笑いコンビ、ナインティナインの岡村隆史と共演した。2010年3月からサントリーの「黒烏龍茶」のテレビコマーシャルに出演している。
日本語吹き替えは水島裕が担当することが多く、ほぼ専任となっている。
注釈
出典
- ^ “サモ・ハン・キンポー、生涯功労賞受賞に「普通の人を演じてこられて幸せ」”. シネマトゥデイ. (2016年5月17日) 2016年5月18日閲覧。
- ^ 新華社通信 (2007年12月9日). “據報英皇高層已證實巨星洪金寶去世” (北京語). 2010年4月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 中國評論通訊社 (2007年12月9日). “死亡傳聞大整蠱 洪金寶:我仲未死!”. 2010年4月6日閲覧。
- ^ 香港文匯報 (2007年12月9日). “內地媒體誤傳洪金寶去世消息” (広東語). 2010年4月6日閲覧。
- ^ サーチナ (2007年12月10日). “「サモ・ハン急死」中国報道に本人激怒”. 2010年4月6日閲覧。
- ^ 人民日報 (2007年12月20日). “洪金寶哭笑不得出來證明自己還活著” (北京語). 2010年4月6日閲覧。
- ^ 人民日報 (2007年12月22日). “中青報:假消息泛濫讓公眾失去判斷” (北京語). 2010年4月6日閲覧。
- ^ “【短片】崇山寶捧盃 大哥大攞獎金240萬” (広東語). 蘋果日報 (2014年1月26日). 2014年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月30日閲覧。
- ^ 2014年レース結果 - レーシングポスト 2015年3月29日閲覧
- ^ “【杜拜直擊】洪金寶揚威杜拜 崇山寶造紀錄時間” (広東語). 蘋果日報 (2014年3月29日). 2014年3月30日閲覧。
- 1 サモ・ハン・キンポーとは
- 2 サモ・ハン・キンポーの概要
- 3 人物
- 4 主な出演作品
- 5 日本でのメディア出演
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