わが友ヒットラー エピソード

わが友ヒットラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 13:55 UTC 版)

エピソード

1968年(昭和43年)暮、『わが友ヒットラー』の来年上演予定の告知として新聞紙上に、ヒットラーに扮した村上冬樹や、勝部演之レームの写真が掲載され、そのコスチュームが上野中田商店あたりで買ったような米軍の中古の執務服に、二級鉄十字勲章のレプリカをつけただけだったのを見た、当時中学3年だったヒットラー・マニアの少年が、劇団「浪曼劇場」に電話をかけて来たという[14][15]。将来ドイツ現代史の研究家を志していたその少年・後藤修一は、歴史の時代考証上の協力を申し出た。三島はその申し出を喜び、その晩さっそく少年の家に電話をかけ稽古場へ来てもらうこととなった[15]

ナチスの制服や突撃隊の軍服や勲章、ヒットラーの仕草、朝食のメニューなど細かい考証を助言した後藤修一は当時を振り返り、「三島さんは革のジャンパーにGパンという軽装で現れ、僕は最初、大道具の方かと見まがったほどだった」と回想し、後藤が「三島先生!」と呼びかけると、三島は笑い「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし。三島さんで良い」と言ったという[15]。後藤は、「だから、僕は今でも一貫して“三島さん”である」と述べている[15]。当時、舞台監督をしていた和久田誠男によると、当初原稿で、「シュトラーサー」となっていたのも後藤少年に指摘され、再版で「シュトラッサー」に改められたという。和久田は、「その時、三島さんもいたんだよね。その子から、これはシュトラッサーですよ、って指摘を受けたんです」と述懐している[14]

また、公演閉幕後、高校生となった後藤修一は友人と共に閉幕パーティーに招待された[15]。後藤はその時のことを回顧し、以下のように語っている。

三島さんが、当時の田辺茂一紀伊国屋書店社長に「こちらが今お世話になっている後藤さんです」と詰襟の高校生の僕を紹介されたことはとても感銘を受けた。三島さんは大学教授だろうが、高校生だろうが分け隔てをしない人だったのだ。真に偉大な人は外見や肩書に捉われないのだ。(中略)それから約一年十ヶ月後、三島さんは壮絶な諌死をされた。三島さんとの出会いは僕の人生を決定づけた。僕は生涯愛国者として生きようと決意したのだから。 — 後藤修一「『わが友ヒットラー』の時代考証―三島さんとの出会い」[15]


1969年の初演でレームを演じた勝部演之は、米軍放出の生地を仕入れ、仮縫いにも立ち会って事細かに指示を出すなど、三島のレームの衣装への拘りは凄まじかったと述べている。また、三島が稽古場で俳優に対して芝居の中身や要望などを話すことは殆どなかったが、通し稽古の際、クルップの杖が倒れるシーンで芝居を止め、「稽古場でさんざん、僕、注文したじゃないですか。それが全然できてないです。それはあなた、意識的に放してらっしゃいます」と青筋を立てて怒っていたと話している。三島は、杖が倒れた音が聞こえたことで初めて、クルップの手から杖が放れた=権力が(クルップからヒットラーに)移行したことが分かる、という演出を意図しており、クルップの手から抜け落ちた権力の象徴としての杖を意識的に手から放して、その瞬間が観客の目に留まってはならないと、そのシーンに強く拘っていたという。勝部自身は三島からは、「若くって、美しくって、さっそうとしてればいいよ」と言われたのみで怒られた覚えはなく、「言ってもしょうがないんだと思ってたのかもしれない」と述懐している[16]


注釈

  1. ^ 2021年1月16-24日に東京・シアター風姿花伝にて上演予定であったが、新型コロナウイルス感染症の流行拡大に伴う緊急事態宣言の発出が見込まれたため延期。
  2. ^ サド侯爵夫人』の脚本読みを録音したテープもあったが、そちらは紛失してしまい所在不明だと和久田誠男は語っている[17]

出典

  1. ^ a b c d 「『わが友ヒットラー』覚書」(劇団浪曼劇場プログラム 1969年1月)。新潮文庫 2003, pp. 234–237、35巻 2003, pp. 386–388に所収
  2. ^ a b c d e f g h i j 「第四章 最後のロマンティーク――三島由紀夫 5『わが友ヒットラー』」(伊藤 2006, pp. 164–168)
  3. ^ 「disc1」「disc2」(41巻 2004
  4. ^ 井上隆史「作品目録――昭和43年」(42巻 2005, pp. 448–452)
  5. ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  6. ^ a b 松本道介「わが友ヒットラー」(事典 2000, pp. 421–425)
  7. ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
  8. ^ a b 「作品の背景――『わが友ヒットラー』」(東京新聞 1968年12月27日)。新潮文庫 2003, pp. 231–233、35巻 2003, pp. 319–320に所収
  9. ^ a b 「一対の作品―『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』」(劇団浪曼劇場プログラム 1969年5月)。新潮文庫 2003, pp. 237–239、35巻 2003, pp. 472–473に所収
  10. ^ 秋山安三郎「劇評」(朝日新聞夕刊 1969年1月27日号)。事典 2000, p. 424
  11. ^ 小島信夫「文芸時評」(朝日新聞夕刊 1968年11月28日号)。事典 2000, p. 424
  12. ^ a b マイコウィッチ・ミナコ・K「わが友ヒットラー」(旧事典 1976, pp. 469–470)
  13. ^ a b 「第五章 文と武の人」(佐藤 2006, pp. 144–205)
  14. ^ a b 和久田誠男「『サロメ』演出を託されて――和久田誠男氏を囲んで(聞き手:松本徹・井上隆史・山中剛史)」(研究4 2007, pp. 4–28)。同時代 2011, pp. 389–426に所収
  15. ^ a b c d e f 後藤修一「『わが友ヒットラー』の時代考証―三島さんとの出会い」(憂国忌 2010, pp. 54–56)
  16. ^ 勝部演之、佐々木治己 著「記憶-三島由紀夫と松浦竹夫」、日本演出家協会 編『戦後新劇 演出家の仕事2』れんが書房新社、2007年5月25日、247-265頁。 
  17. ^ 「解題――わが友ヒットラー」(41巻 2004, pp. 5–7)






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