Magic vs Michael
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 00:18 UTC 版)
「1990-1991シーズンのNBA」の記事における「Magic vs Michael」の解説
1966年に誕生したシカゴ・ブルズは創部元年からプレーオフに進出し、1970年代に入るとジェリー・スローン、チェット・ウォーカー、ボブ・ラブ、ノーム・ヴァン・ライアーらを擁した有数の強豪チームとなり、そのディフェンス力はリーグでもトップクラスを誇った。70年代後半になると主力選手の衰え、離脱などで成績が落ち込み始め、以後80年代前半まで続く低迷期に入る。マイケル・ジョーダンはそんな中で1984年にブルズに入団した。 ジョーダンは紛れもなくブルズ史上最大のスターであり、またNBA全体においても際立った存在だった。1年目の1984-85シーズンから行く先々のアリーナを超満員にするほどの人気を集めたジョーダンは、2年目の1986年のプレーオフ1回戦ではボストン・セルティックスから63得点をあげ、かのラリー・バードに「あれはジョーダンの姿をした神だった」と言わしめた。翌1986-87シーズンには平均37.1得点を記録して初の得点王に輝き、以後得点王の座はジョーダンの指定席となった。数々の劇的なショットや驚異的な身体能力から繰り出される鮮やかなプレイやダンクの数々は、瞬く間に人々の心を虜にした。チームもジョーダン加入から徐々に成績を伸ばしていき、1989-90シーズンには55勝を記録するなど、イーストを代表する強豪チームへと成長した。 しかしジョーダンとブルズはプレーオフで良い結果を残せなかった。"バッドボーイズ"としてリーグに君臨したデトロイト・ピストンズが立ちはだかったからである。ピストンズはジョーダン頼みのブルズのオフェンスを良く理解しており、ジョーダン・ルールと呼ばれる戦術で毎年のようにプレーオフではジョーダンとブルズを叩きのめしていた。いつしかブルズは「ジョーダンとその他4人」と言われるようになり、またジョーダンもウィルト・チェンバレンを引き合いに出され、「得点王のいるチームは優勝できない」などの批判を集めるようになった。個人成績では数々のNBA記録を持つ60年代NBAの怪物チェンバレンも優勝を掴むまでは大きく遠回りをし、一方彼のライバルであったビル・ラッセルは個人成績ではチェンバレンに遅れをとったが、NBA最多となる11回の優勝を誇った。人々はジョーダンがこのままではチェンバレンと同じ轍を踏むのではないかと危惧していた。 堂々巡りとなったジョーダンとブルズの大きな転換期となったのが、1989年のフィル・ジャクソンのヘッドコーチ就任だった。まずジャクソンはチームケミストリーの再構築から手をつけた。多くのファンに囲まれることが常だったジョーダンは、護衛を兼ねて知人や父親などを帯同させていた。常に取り巻きがいる状態はジョーダンとチームメイトの間に乖離を生じさせていたため、ジャクソンはジョーダンを説得し、練習中などは取り巻きを側に置かないことを守らせることで、チームメイトとの隙間を埋めようとした。そして戦術面ではジョーダン頼みだったオフェンスを改めさせ、90年代ブルズの代名詞となるトライアングル・オフェンスを導入。この戦術はジョーダンが得点を減らしてボールをより分散させることが必要だったが、ジャクソンはこれもジョーダンに受け入れさせた。1966年にフィラデルフィア・76ersのヘッドコーチとなったアレックス・ハナムは、やはり当時ウィルト・チェンバレン頼みだった76ersのオフェンスを改めさせている。 新たなヘッドコーチと戦術で新シーズンに臨んだブルズは、難解で複雑な新オフェンスシステムの会得に苦労し、シーズン前半はやや不安定な時期を過ごしたが、後半に入ると徐々に新システムが浸透し始め、最終的には55勝を記録。ジョーダンは得点アベレージを減らしたものの、それでも3年連続で得点王を獲得。3年目のスコッティ・ピッペンはオールスター選手に成長し、彼と同期のホーレス・グラントもインサイドの守護神としてチームに欠かせない存在となった。また1988年のチャールズ・オークレーとのトレードでやってきたビル・カートライトはベテランとしてリーダーシップを発揮し、ジョン・パクソンやB.J.アームストロングは優れたシュート力でジョーダンをサポートした。プレーオフではピストンズの前にまたもや破れジョーダンは大きく落胆したものの、このシリーズでブルズはかつてない程にピストンズを追い詰め、ジョーダンとブルズの時代がもう間もなく訪れるであろうことを予感させるものだった。 そしてブルズはこのシーズン、当時のフランチャイズ記録となる61勝を記録。ジョーダンは5年連続で得点王に輝き、さらに自身2度目となるMVPにも選ばれた。プレーオフでジョーダンの前に立ちはだかったのは彼と同世代のパトリック・ユーイング率いるニューヨーク・ニックスと、チャールズ・バークレー率いる76ersだったが、ブルズは問題なく両チームを片付け、そしてようやく長年の雪辱を果たす機会をカンファレンス決勝で得た。2年連続ファイナルまで戦ったピストンズにはやや疲れが見られ、またシーズン中にはアイザイア・トーマスが故障で離脱し、プレーオフも苦労して勝ち上がってきた。ブルズと対決する時にはすでに疲れ果てており、ブルズの長年の雪辱は思いのほかあっけなく果たされた。ブルズはカンファレンス決勝でピストンズを4戦全勝でスイープしたのである。ブルズがチーム史上初となるファイナル進出を決めた第4戦では、ほぼ負けが決まったピストンズはベンチに控えていたアイザイアを始めとする主力選手たちが試合終了を待たずしてロッカールームに引き下がった。本来なら相手チームと握手や挨拶を交わすことが慣例となっているため、ピストンズの行為は大きな批判を呼んだが、一方で"バッドボーイズ"と呼ばれたピストンズの黄金期の終焉を象徴するに相応しい光景でもあった。80年代のバッドボーイズが去り、そしてジョーダンを筆頭に新世代が活躍する新たな時代をNBAは迎えたのである。 これまで数々のドラマチックな試合を演じてきたジョーダンに、ファイナルは最高の相手を用意した。西から勝ち上がってきたのは、マジック・ジョンソン率いるロサンゼルス・レイカーズ。90年代の主役となるであろうジョーダンの挑戦を、80年代の主役だったマジックが受ける。NBAにとってはこれ以上ない最高のシナリオだった。 カリーム・アブドゥル=ジャバーが引退し、パット・ライリーがヘッドコーチから退いてもなお、レイカーズは西の盟主としての立場を堅持していた。新ヘッドコーチにはオフに現役から引退したばかりのマイク・ダンリービーが就任。マジックとジェームス・ウォージー、バイロン・スコットらは変わらず鮮やかな"ショータイム"を展開し、ジャバーが抜けたインサイドは2年目のブラディー・ディバッツに新加入のサム・パーキンス(ノースカロライナ大学時代のジョーダンのチームメイト)が固め、ベンチからはA.C.グリーンがサポートした。カンファレンス2位となる58勝でレギュラーシーズンを終えたレイカーズはプレーオフも順調に勝ち抜き、そしてカンファレンス決勝では若手中心でレギュラーシーズンはリーグトップの63勝を記録したポートランド・トレイルブレイザーズと対決。レイカーズは4勝2敗でブレイザーズを破り、2年ぶりにファイナルに進出した。
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